バイク呉服屋の忙しい日々

むかしたび(昭和レトロトリップ)

海へと続く道、その果つるところへ  走古丹・落石岬・野付

2019.12 17

多くの加賀友禅の図案は、それぞれの作家が描いたスケッチを基にしている。モチーフは、散歩の途中で見つけた野の花や、庭にやって来る鳥たちだったりと、ごく身近なものばかり。そして、四季折々に姿を変える山や海の風景もまた、図案の中に息づく。ほとんどの作品の中では、こうした日常の些細な姿が、作家の感性で表現されている。

そして図案だけでなく、挿し色にも、その時々の作家の心が映し出される。例えば、同じ花を見て描いたとしても、朝と夕暮れでは、微妙に色彩が変わるだろうし、晴れわたった空の下で咲く花と、雨に打たれている花では、また違うだろう。作者自身の心の持ち方ひとつで、どうしても色は変わる。

このように、人の感じ方は様々な要因で常に変わり、一時として同じにはならない。

 

バイク呉服屋は、時折一人で旅に出る。その中には、繰り返し訪ねる場所もある。北海道・東大雪の十勝三股などは、40年にわたって通い続け、すでに20回以上は行っているだろう。私にとっては、見慣れたはずの風景なのだが、行くたびに感じ方が違う。

無論それは、季節や天候にもよるだろうが、最も大きいのは自分自身の心のありようかと思える。三股という土地は、この40年何も変わらず、山も森も昔と同じ姿のまま。けれども私が変わってしまったのだ。自分の日常は日々変わり、そして年齢が進んでいく。変わらぬ自然を前にした時、人は変わりゆく自分の姿を、改めて認識する。

私にとっては、この、自分を見つめ直す時間が、どうしても必要なのだ。それは、一年のうち数日でいい。これが、生きていく上での糧にもなっている。

ということで、今年も先月の終わりに北海道を歩いてきた。この秋は忙しく、一時は行くことを諦めかけたが、無理にでも時間を作らないと、後できっと後悔する。そんな思いもあってのことだった。呉服屋の話を望まれる、多くのブログ読者の方には誠に申し訳ないが、今日はバイク呉服屋が勝手をさせて頂き、旅の話を書かせて頂く。もしよろしければ、どうかお付き合い願いたい。

 

(根室 別海町・野付半島)

私は今も、学生時代に知り合ったバックパッカー達との付合いが続いている。無鉄砲だった我々も、仕事と家庭を持ち、年齢を重ねて、だいぶマトモになった。けれどもみんな、「隙あれば、どこへでも出掛けてやるぞ」と企んでいて、「バックパッカーとしてのスピリット」は何も変わっていない。国内はもとより、海外の辺鄙な国を独り歩きしていた連中である。人間、そう簡単に変われるものではない。

そんな中の一人に、Mくんがいる。彼と冬の北海道で出会ってから、40年近くなる。彼は、その時はまだ東京の高校生だったが、今や従業員が千人以上いる企業のトップ。普段は、一週間ごとに日本とアメリカを行き交いながら、忙しい毎日を送っている。

仕事と時間に追われまくっている彼だが、ほんのわずかなスキを狙って、昔と同じように、今も北海道を歩いている。そのため私は、年に一度彼と会って情報交換をしている。私が訪ねるところは、ここ数年、十勝地方に限られていたが、今年は彼の勧めもあって、根室周辺に狙いを定め、「海へ続く道の先」を目指すことにした。これからお話する走古丹・落石岬・野付は、いずれも海への一本道の果てにある。

 

地名だけでは、場所がどこなのか見当が付かないと思われるので、今回も時刻表の路線図で説明しよう。上の路線図は、1981(昭和56)年のものだが、もちろん当時は国鉄である。

今回最初に訪ねる走古丹(はしりこたん)は、標津線・別海駅から右下に付き出た半島の先端。また落石岬は、根室線・落石駅から太平洋に向かって突き出たところ。そして野付は、地図の右上に見える野付半島の道の先。

今回の旅の起点、旧標津線・奥行臼(おくゆきうす)駅。この線が廃線になったのは、1989(平成元年)4月。30年も経つというのに、駅は昔そのままの姿を止めている。町は歴史的建造物として、駅舎やレールを大切に保存している。

(標津線の時刻表・1982年 10月)

標津線は、中標津を中心として二系統・Yの字方向に路線が伸びていた。奥行臼は、根室線の起点・厚床の隣駅で、別海町の南端集落。明治20年代から入植が始まり、戦後の新酪農村の建設に伴って、移住者が増える。以前この駅から、同町の内陸部・上風連集落まで、拓殖軌道が伸びていた。今も周辺には、牧草地が広がっている。

9時半に釧路空港へ降り立ち、一目散に奥行臼を目指す。この駅は、最初の目的地・走古丹へ向かう国道244号の近くに位置する。釧路から厚岸までは国道44号を走り、途中の茶内で道道に入る。この道は、根釧原野の真っただ中を貫くルート。広大な丘陵と牧草地が交互に現れ、日本離れした風景が広がる。

奥行臼に着いたのは、丁度お昼頃。駅のホームに座り、恒例に従い、セイコーマートの筋子とおかかベーコンのおにぎりで昼食を摂る。北海道のローカルコンビニ・セコマをこよなく愛する私は、北海道に来て最初の飯は、いつもここのおにぎりと決めている。

空港に着いた時から、どんよりしていた空だが、飯の途中から雨が降り出した。この日の根室地方は、午後から雨、そして次第に風も強まり、夜には暴風雨の恐れもあるとの予報。急がなければ、何も見えなくなる恐れがあるので、早々に出発する。

 

走古丹へ向かう、一本道(道道475号)

走古丹は、風蓮湖の北岸から根室湾に突き出した砂州の上にある。地名は、アイヌ語・アシリコタン(新しい村)に由来するが、北海道蝦夷語地名解によれば、かつて権力を持っていた根室のアイヌ酋長・チンペイが、別海のアイヌをここに移し、新しい村を作ったという。現在の戸数は51。人口は202人。ほとんどが漁業に従事している。

奥行臼から、国道244号を本別海まで走ると、走古丹へ向かう道道475号の分岐となる。それが上の道。この道をまっすぐ進むと、人家と漁港のある走古丹の集落にぶつかるが、この道の途中から、砂嘴の上をまっすぐ進む道が分かれている。今回の目的は、この砂嘴をどこまでも走ることにある。

雨風が強くなり、横なぐりに降る。カメラのレンズにも水滴が付いて、ご覧のような画像になってしまった。

この道は、国土地理院が発行する5万分の一の地図で見つけたのだが、なぜこんな狭い砂嘴の上に道が必要だったのか、疑問に思った。しかも道は行き止まりで、その間には何も無い。その先端には、どのような風景が広がっているのか。ここに来たのは、そんな好奇心からだ。

道の左側が海・根室湾、右側が湖・風蓮湖。海側には、使われなくなってかなり時間が過ぎた、朽ちた番屋が数軒。

湖側の枯草の中からは、エゾシカが四頭顔を出す。根室東部の風蓮や野付は、鹿の越冬地。いきなり道へ飛び出すこともしばしばで、事故がよく起こる。今回の旅の中でも、5回ほどシカと接触しそうになった。北海道の道はスピードが出やすいが、常に「シカが潜んでいること」を想定して運転しなければ、とんでもないことになる。

砂嘴の道に入ってから2キロほどで、舗装道が途切れて、コンクリートとなり、最後の番屋を過ぎると、道の傍らにあった電線もなくなり、ご覧のような開放的なダートとなる。画像でこの道が、海と湖を隔てるほんのわずかな狭間にあることが判ると思う。その幅は10メートルほど。

湖側からは、対岸の走古丹の集落を遠望できる。11月の終わり、しかも雨に煙る午後なので、寂寞としている。これが、緑萌える夏の朝ならば、全く印象が変わるだろう。

やがて、唐突に砂嘴の道が終わる。最後はこの砂山があるだけ。

砂山に上って、走ってきた道の海側を見る。晴れていれば、国後が望めるはずだが、雲に覆われて何も見えない。風が強く、立っているのもままならない。

この砂嘴の道は、昭和47(1972)年、流氷によって一度切断され、その後の災害復旧工事により、護岸を兼ねた道として作られた。この道沿いには定住者は無く、所々に番屋が点在するだけなので、人の姿はもとより、全く車も通らない。こんなところで、何かトラブルが起これば、どうにもならない。

道の果つるところには、予想通り何もない。だが、この何も無さが「最果て感」をつのらせる。冬近いよどんだ空は、殺風景なこの場所に、むしろふさわしかったのかも知れない。もう一度、明るい季節に訪ねてみたい。

 

この日はこの後、対岸の走古丹集落と、風蓮湖の真ん中に突き出した槍昔集落を訪ねて、早々に今夜の宿・霧多布のわたなべ民宿に向かう。この宿に泊まるのは、30数年ぶりのこと。若い頃、瞼暮帰島へと渡った思い出深い宿である。

ワタナベ民宿の前・中の浜から見る、瞼暮帰島の朝焼け。昨夜は、恐ろしい風と雨だったが、夜が明けると穏やかになった。浜から見た島の朝は、昔と変わらず美しい。

さて、この日は午前中に落石岬を歩き、午後は野付へ向かう予定。距離的にも、かなりきつい行程。秋の夕暮れは早く、3時半には陽が落ち始めるので、朝7時には宿を出なければ間に合わない。

 

霧多布から落石へは、浜中湾に面した海沿いの道を行く。道道142号・通称 北太平洋シーサイドライン。

霧多布へ続く海岸線が見える、奔幌戸(ぽんぽろと)集落で。

道沿いにある小さな湿原・ボロト沼。タンチョウの飛来地として知られる。静かな水面に、水鳥のはねる音が響く。

右に太平洋を見ながら、アップダウンを繰り返す絶景の道。晴れているので、青い空と海のコントラストがとても鮮やかだ。あまりの美しさに、途中で何度も車を止める。奔幌戸、仙鳳址(せんぼうし)、貰人(もらいと)、恵茶人(えさひと)、羨古丹(うらやこたん)と難読な小さな漁村が続く。道の左には、湿原や名も知れぬ小さな沼が続き、右には雄大な太平洋が広がる。

 

ほとんど車と行き会うことのない絶景道を走り抜けて、根室本線の落石駅に辿り着く。以前この駅に来たのは、昭和58年の秋だから、もう36年も前になる。その時は、ここから岬まで歩いた。

落石漁港を見ながら市街地を抜け、坂を上って、風車が回る台地に上がる。駅からここまで約3K、歩けば1時間ほどかかる。この日はここに車を止めて、岬への道を歩く。

岬があるこの丘は、灯台山と名前が付いている。海の向こうに見えるのは、無人島のユルリ島。

道を歩き始めてまもなく、石造りの建物が現れる。この場所には、似つかわしくない建物だが、これは昭和41年まで稼働していた落石無線電信局の跡。明治41年、北米航路の汽船との交信を拡大するために、開局された。36年前にここを歩いた時は、かなり荒れ果てていたが、今はすっかりきれいになっている。美大の教授が修復して、アトリエとして使っているらしい。

しばらくすると、木道が現れる。この道の先が、灯台。

木道の両側は、アカエゾマツに囲まれた湿原。ここで自生するサカイツツジは大変貴重な植物で、日本で見られるのはこの落石だけ。6月中旬には、紫紅の小さな花を付ける。この他、ヤチヤナギやリンネ草など、様々な北方の花々が木道を囲む。観光地化を避け、植物環境の保護を優先しているので、静謐が保たれる。

木道の先に、小さな灯台が見え、その先には海が広がっている。この風景は、昔と全く変わらない。前にここへ来たのは、23歳の時だったかと、思わず感慨にふける。記憶と同じままの景色に出会うと、人は時の流れを強く感じる。

誰一人いない灯台への道を歩く私を、エゾシカの親子がじっと見つめている。毎日どこへ行っても、人と会うことはなかったが、シカだけは必ず出くわす。

灯台の脇から、崖の道を歩く。ご覧の通り、すぐ下が海。灯台周辺は海に浸食され、崖の高さが40メートルにも及ぶ。この小道から転がり落ちたら、それで終わり。ここはいつ来ても強風が吹いているが、今日は昨日の風が残っていてなお強く、簡単に吹き飛ばされそうだ。体を前にかがめて、ゆっくり歩く。

崖から下を覗くと、海に吸い込まれそうな気がする。

 

崖の道を過ぎると、こんな風景になる。段丘が連なる先が海、左手に灯台、そして空。

冬枯れの台地の上に、ポツンと佇む灯台。どこか、日本離れした風景だ。

昔のことを少しずつ思い起こしながら、ゆっくりと灯台を巡った。歩かなければ、この風景には決して辿りつけない。そして、それが、ありのままの姿を、そのまま残すことに繋がる。人を多く呼び寄せるために、余計な道を作ったり、作りモノをすることが、いかに愚かなことかと思う。

さて、思わず落石で時間を食ってしまった。急がないと、野付で日が暮れる。

 

国道244号・尾岱沼(おだいとう)から見た根室海峡。水平線の彼方に、うすぼんやりと国後島の姿が見える。

出掛ける前には、予め目的地を決め、移動時間を見積もっておくが、いつも予定通りに事は運ばない。落石を出発したのが11時、ここから野付半島までは100K以上あるので、どんなに急いでも2時間はかかる。到底どこかでゆっくり昼飯を食べる時間はなく、これで、今日もセコマ飯に決定。

根室海峡に面した海辺で、厚床のセコマで購入した、カツカレー弁当とフライドポテト、セコマオリジナル・パインソーダで昼を摂る。茫洋と広がる海を見ながらのセコマ飯は、私にとって何よりのご馳走。

車の窓ごしに野付半島の姿を確認しながら、国道244号、道道950号と走り、野付半島のネイチャーセンターに着いたのが、1時半。ここから歩くことになる。

 

野付半島は、根室海峡にエビのしっぽのように突き出した砂嘴で、囲んでいる海が野付湾。ここは、ハマナスやセンダイハギの大群落で覆われた草原や湿地があり、秋に紅葉するアッケシソウも生育する。半島の先端は、立ち枯れたトドマツやエゾ松が林立するトドワラや、原始林のオンニクル(アイヌ語で大きな森という意味)が枯れたナラワラが、荒涼とした風景を醸し出している。また湿地には多くの水鳥が生息し、2005年には、ラムサール条約の登録湿地として認定されている。

野付半島は割と知られた観光スポットなので、これまであまり興味を持てなかったが、友人のMくんは、是非にと勧める。夏の花の盛りには、大勢の人で賑わうが、この季節に歩けば、十分静かな風景を堪能出来ると言う。彼は、私の旅の趣向を知り尽くした上で勧めているので、間違いはないだろう。

トドワラへと続く道。本来なら、草原の中に付いている細道を歩かなければならないが、誰もいないので、広い馬車道を歩く。ネイチャーセンターからトドワラまでは、1.3キロで約30分。遠くに見えるのは、半島の先にある野付崎。

野付湾の向こうに、先ほど通ってきた尾岱沼が見える。遠くの山は、斜里岳、標津岳。花の季節はとうに過ぎているので、ただ枯野が広がるばかり。

道は途中から木道に変わる。ご覧の通り幅は狭く、手すりもない。海の中を通るので、風にあおられたら落下する危険がある。

木道の途切れた所が、トドワラ。立ち枯れた木が、数本。私は38年前の2月に、結氷した野付湾を歩いて、ここに来ている。その時には、数十本の枯れ木が雪原に林立し、荒涼とした姿を見せていた記憶があるので、今とかなり様相が違う。

この状態を見ると、残っている木が倒れるまでに、そう時間は掛からないだろう。だが、トドワラは消えても、海に囲まれた湿原の風景は美しい。それで十分だと思う。

 

トドワラから木道をひき返すと、途中で海を隔てた岸辺へと渡る橋が分岐する。海を渡る橋の長さは、50メートル以上ある。ご覧の通り、簡単な柵が付いているだけなので、怖い。落石岬もそうだったが、ここでも絶えず強い風が吹いている。そうは言っても、道が続いているなら、歩いてみたくなる。

ゆっくりと恐る恐る橋を渡りきると、こんな風景が広がる。遠く見える建物が、ネイチャーセンター。

ここが、道の果つるところ。狭い砂州の両側から、波が打ち寄せている。風と波の音以外、何も聞こえない。茫漠とした風景に、しばし佇む。

そして、陽が西に傾き始めた。光が反射して水面が輝き、道が海に消えている。Mくんが私に見せたかったのは、こんな風景だったのかと思う。時刻はまだ、3時を少し過ぎたばかり。急いで戻って、野付灯台へ行ってみよう。夕暮れには、まだ間に合うかもしれない。

ネイチャーセンターから5分ほどで、野付灯台・竜神崎に着く。この道は、地元の漁業関係者の車しか通行できない。道はまだ続いていて、この先には原生花園がある。次回はこの道を辿って、果てまで歩いてみたい。

 

これで、根室の海を辿る旅を終え、明日からは十勝に入る。今度は、山を辿る。最後に、野付の夕景をご覧に入れながら、終わることにしたい。

 

 

今回も、読者の方々が、嫌になるほど長々と旅行記を書いてしまいました。本当に、申し訳なく思います。皆様、どうぞ今回の稿は読み飛ばしてくださいね。ただ、「さいはての旅」をご所望の方には、少しは参考になるかも知れません。翌日は、全く違う風景の中にいましたので、長くなったついでに、載せておきましょう。

雄阿寒岳と雌阿寒岳。足寄町営・大規模草地牧場から。

次回からは呉服屋に戻って、きちんと話を進めていきますので、これに懲りずに、どうぞよろしくお願いします。次稿は、今年最後のコーディネートをご紹介する予定です。

今日は、本当に長い話にお付き合い頂き、ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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松木 茂」プロフィール

呉服屋の仕事は時代に逆行している仕事だと思う。
利便性や効率や利潤優先を考えていたら本質を見失うことが多すぎるからだ。
手間をかけて作った品物をおすすめして、世代を越えて長く使って頂く。一点の品に20年も30年も関って、その都度手を入れて直して行く。これが基本なのだろう。
一人のお客様、一つの品物にゆっくり向き合いあわてず、丁寧に、時間をかけての「スローワーク」そんな毎日を少しずつ書いていこうと思っています。

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