バイク呉服屋の忙しい日々

現代呉服屋事情

東京から、専門店に向く「良質な呉服問屋」が消える  「菱一」の終業

2019.03 04

このブログの一番下には、私が心掛けている「自分の商いのスタンス」が書いてある。だがそれは、別に大仰なことではなく、「お客様に良質な品物を求めて頂き、長く使って頂けるように努力する」という、呉服屋としては極めて単純で、普通のことである。

そもそも、小売屋が果たす役割は、モノ作り職人と加工職人(仕立や直しを施す)の間で品物を動かし、消費者に満足出来る和の装いを提供すること。いわば、和装に関わる仕事の交差点に立ち、日々の商いに臨んでいるのが、呉服専門店と言えよう。

だから、扱う品物の質を見極める力や、どのように人の手が施してあるのかを、きちんと消費者に説明できるだけの商品知識を持たなくてはならない。これと同時に、美しく誂えるための仕立の知識や、しみ汚れに対する対処の方法、あるいは寸法直しの工夫の仕方など、一つの品物を長く使って頂くために必要な、加工の知識も求められる。呉服屋として仕事をするためには、品物を作る職人と加工する職人の仕事への理解は、どうしても欠かすことが出来ない。

 

良質な品物と腕利きの加工職人は、バイクで言えば、前と後のタイヤに当たるだろう。この両輪がきちんと動くことによって、仕事を自分の理想とする方向へ進めることが出来る。

けれども、これまでこのブログの中でも度々危惧してきた、良質な品物の減少と良い腕を持つ職人の枯渇は、ここにきて、現実の問題として降りかかってきたように思える。現状では、品物と職人という二つのタイヤが、すっかり磨耗し、パンク寸前。しかも、新しいスペアは用意されていないので、今あるモノを何とかなだめながら、使っていく他に手立てがない。

こうした状況の中で、先月の終わり、一軒の呉服専門問屋が店を閉じた。最後まで品物の質にこだわりを持ち、その取引先を専門店に限定していた、「東京最後の高級呉服問屋・菱一」である。突然の菱一の終業は、質に重きを置く小売屋にとっては衝撃であり、これから商いを続ける上で、様々な影響が出てくると予想される。無論、バイク呉服屋にとっても、有力な仕入先を失うこととなり、この先どのように品物を揃えていくのか、考えなければならない事態に直面している。

これはまさに、品物というタイヤに釘が刺さって、空気が抜けかけた状態であろう。では何故、菱一は店を閉じなければならなかったのか。その原因を探っていくと、呉服業界を取り巻く様々な問題が見えてくる。今日は、そんな現状を読者の方々にも知って頂き、改めて専門店を取り巻く環境の厳しさをご理解頂きたいと思う。

 

菱一のオリジナルたとう紙。菱に一文字の会社マークの上に、「きものを創る」と掲げている。ここに、「モノ作り」を重要視していたこの会社の姿勢が表れている。

菱一の歴史は、以前「取引先散歩」の稿でご紹介したことがあったが、その前身は1849(嘉永2)年に創業した「深田与三兵衛 江戸舗」である。江戸舗という名前で判るように、多くの呉服問屋が京都で創業されている中では珍しい、江戸の問屋だった。

長い歴史を持つ深田だったが、1930(昭和5)年に、一時行き詰まり、会社を整理して出直している。そして、戦後の1948(昭和23)年になって事業を受け継いだのが、現在の菱一社長・桟敷正一朗氏の祖父・正太郎氏。深田が使っていた菱に一文字のロゴを、そのまま社名に使い、「菱一」として出発したのである。であるから菱一は、戦後生まれの会社とはいえ、明らかに深田の後継であり、江戸嘉永以来170年もの歴史を受け継いできた老舗問屋と言えよう。

 

菱一の手挿し飛び柄小紋(加工着尺)と型小紋。

江戸を発祥とする問屋・深田の創る品物は、小粋で垢抜けており、都会的なセンスの良さを感じさせるものが多く、特に玄人筋・花柳界の女性達から支持されていた。そのため菱一も、この伝統を受け継ぎ、京都の問屋が作るものとは一味違う、キリリとすっきりした意匠を好んだ。それはまさに、「江戸好み」というべき品物であった。

菱一のオリジナル十日町絣・橡(つるばみ)紬

菱一は、フォーマルな絵羽モノや小紋や染帯など、染モノ全般を作るだけではなく、大島や十日町の機屋でオリジナル意匠の紬も織らせていた。そして、大羊居や大松、大定といった手を尽くした江戸友禅の逸品も数多く扱った。この会社が、社是として掲げた「きものを創る」にふさわしい、質を重んじたモノ作りを強く意識していたことは間違いない。

 

平成になって30年。呉服の需要は右肩下がりに落ち込み、この間に多くの問屋が姿を消した。中でも、1996(平成8)年の正月明けに起こった高級専門問屋・北秀の破綻は、上質な品物を扱う専門店にとっては大打撃であった。うちも染モノの仕入れは、北秀に依存していたところがあったので、この時にはかなり痛手を受けた。

けれども菱一は、厳しい商況の中にあっても、質にはこだわり続けた。北秀が扱っていた江戸友禅の逸品(大羊居や大松など)も扱い、需要の少なくなった絵羽モノや、小紋などのカジュアルモノも積極的に作り続けた。そして、専門店にとっては、「東京に残る最後の高級呉服問屋」と位置づけられるようになっていった。そう、我々にとっては、いわば「最後の砦」だったのである。

だが、歯を喰いしばって頑張ってきた菱一も、平成を僅かふた月残して、消えてしまう。悲しいかな、次の時代を迎えることは、出来なかった。では、どうしてこのような事態に至ってしまったのか。無論、呉服市場の急速な減速が根底にあるが、そればかりではない。そこには、呉服専門店が抱えている問題とも、関わりがある。その辺りのことを、少しお話してみよう。

 

菱一の取引先は、質を重視する専門店に限られていた。老舗デパートはもとより、NCや組織販売をするような大型店とは、一切取引に応じていなかった。それは、品物を理解出来る店だけに、自分のところで作る品物を商ってもらいたいという、菱一の矜持の表れでもあっただろう。

けれどもその専門店は、ここ30年の市場の縮小と歩を合わせるかのように、力を失っていった。需要の減少と顧客の高齢化による売り上げの減少は、仕入れの減少へと繋がり、当然菱一との取引は少なくなる。そして、取引のあっ店そのものが、後継者難により店を閉じる事態も、数多く発生した。

そして、何とか残った店も、商いの不振と資金の低下に伴い、おいそれとは品物を仕入れなくなった。それは同時に、この業界に蔓延る商習慣・「浮き貸し制度」を使う頻度を高めることに繋がっていく。消費者の方にはわかり難いので、この制度を簡単に説明しよう。

例えば、ある店が期間を限定して展示会を開くとしよう。その時に準備する品物は、問屋から借りてきて会場に並べる。無論、普段店に置いてあるモノもあろうが、その数は少ない。店は、自分で品物を買い取っておくのではなく、その催事で売れた分だけを支払う。そして展示会が終われば、残った品物は全て問屋へ返品される。つまりは、小売屋が品物にリスクを負わずに、商いが出来るしくみが、この「浮き貸し」なのである。

 

菱一の取引先は、他の店と比べれば専門性が高く、品物への理解も深い。けれども、商いの場は展示会が中心であり、やはり「浮き貸し」を依頼する店が多かったのだ。この「買わずに借りる」という小売屋の姿勢が、菱一をじりじりと追い詰めていった。

いくら質を重視して品物を作ったとしても、小売屋に買ってもらわなければ、確実に品物は捌けていかない。「借りる店」ばかりでは、売り上げの目途も付かずに、品物は回転していかない。モノを作った職人への支払いは、待ったなしであり、支払いをしなければ職人は仕事をしなくなる。そして、品物が売れずに在庫として残れば、次のモノ作りにあてる資金が不足し、段々と作る品物が少なくなっていく。小売屋が「モノを買わない」ことが、こんな悪循環を生み出してしまう。

ならばと、新たな取引先を見つけようにも、今の呉服小売業界の中で、質を重視するところは本当に少なく、菱一で扱うような品物を見分ける店は、おいそれとは見つからない。そして、デパートと取引するにしても、買取をしてくれるはずも無く、やはり「貸すだけ」の商いになってしまう。

 

以前、菱一で社長から聞いた話だが、品物を借りにきたある呉服屋が、目当てのモノが見つからなかったことに腹を立てて、「オマエの所は、こんなモノも作らなくなったのか」と言ったそうだ。買うのではなく、借りるだけなのに、このありさまである。これは、現在の問屋と小売屋の力関係をよく表している。

展示会などせずに、店頭での商いだけで仕事をしていれば、店の棚にはどうしても品物が必要になる。だから、仕入れは欠かすことが出来ず、リスクを背負って品物は買い取らなければ、きちんとした商いは出来ない。そして、やむを得ずに品物を借りる時は、どうしても自分の店の在庫に、お客様が求めるモノが無い時だけだ。それも、予め商いをする日を決めた、その日だけに限られるべきだ。でなければ、問屋には迷惑が掛かってしまう。やはり、小売屋と問屋の関係が五分五分でなければ、正常な取引とは言えないのである。

 

消費者の中には、質を見極めて、良いモノを求めたいと考えている方は、まだまだある。私も、かなり潜在的な需要があるのではないかと、日々の商いの中で思うことが多い。質の良さを説明しながら、丁寧に商いをすれば、目を止めて下さるお客様が沢山おられる。

だが、肝心な売り手の方が、品物を仕入れることもせず、自分の利益だけに目を向け、商品知識や消費者の好みを理解することを、疎かにしてしまったなら、結局は良質なモノ作りは頓挫し、扱う問屋は消えてしまう。こうなってしまったら、小売店がいくら良いモノを扱おうとしても、お客様に品物を見せることすら、出来なくなってしまう。

結論を言えば、それぞれの専門小売店が、展示会中心の商売から抜け切れず、独自に商いの方法を探ることもせずに、ただ漫然と旧来的な、問屋依存の商いに終始し続けたことが、菱一という問屋を廃業に追い込んでしまった一因である。 浮き貸しという商習慣と、それに伴う小売店の劣化が複合すれば、このような事態を招くのは必定のこと。こんな歪んだ構図は業界全体に広がっており、今回の限りでは無い。

 

以前うちで扱った、大羊居の訪問着(上)と大松の付下げ(下)。双方ともに、菱一から仕入れた品物。

さて、様々な原因はあれども、菱一という良質な専門問屋を失ったことは、事実である。バイク呉服屋にとっても、上の画像にある大羊居や大松の品物を扱う仕入れ先を失したことになり、それはうちの店で、上質な江戸友禅をお客様に見せることが難しくなることに、繋がってくる。

菱一に依存してきた品物の中には、おいそれと他の問屋では見つからないものも多い。それどころか、菱一ほど質にこだわる問屋は、東京にはもう無い。失ってみると、その存在がいかに大きいものだったのか、身にしみて判る。「良質な品物を、長く使って頂く」というコンセプトを、私はいつまで守っていけるのか、その危惧の念はますます強くなっている。

 

なお、菱一はあくまで廃業であり、職先、取引先への支払いは全て行ない、社員には退職金も支給される。今ならば、迷惑を掛けずに辞めることが出来ると社長が判断したこと。それは苦渋の決断ではあったが、経営者としては、一定の責任を果たしたことになるように思う。

まさに「矢折れ、刀尽きて」の終業であるが、菱一の下でモノ作りに携っていた職人や、品物を供給していた仕入先は、仕事や売り場を失うことになる。我々小売屋以上に、モノ作りの現場に影響をもたらすことは、避けられまい。こうして、市場からは良質な品物が失われていく。こうした現状は、もう誰にも止められまい。

 

ある時に、うちを担当していた菱一の社員から聞いたことですが、取引先の中には、代替わりすると取引を辞めてしまう店も少なくなかったそうです。

彼は、「みんな『振袖屋』になってしまい、扱う品物は何でも良くなってしまった」と嘆いていましたが、確かに、インクジェットの振袖と安価な帯をセット販売する商いでは、専門知識など全く必要ではなく、後継者は簡単に「呉服屋の社長然として」いられるでしょう。

この現状を見る限りでは、プライドを持って専門店を維持することが、いかに困難かが判ります。将来を見通せないことは寂しいですが、私は正直なところ、自分に後継者がいないことに、安堵しているもう一人の自分がいます。

今日も、長い話にお付き合い頂き、ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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このブログに掲載されている品物は、全て、現在当店が扱っているものか、以前当店で扱ったものです。

松木 茂」プロフィール

呉服屋の仕事は時代に逆行している仕事だと思う。
利便性や効率や利潤優先を考えていたら本質を見失うことが多すぎるからだ。
手間をかけて作った品物をおすすめして、世代を越えて長く使って頂く。一点の品に20年も30年も関って、その都度手を入れて直して行く。これが基本なのだろう。
一人のお客様、一つの品物にゆっくり向き合いあわてず、丁寧に、時間をかけての「スローワーク」そんな毎日を少しずつ書いていこうと思っています。

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