バイク呉服屋の忙しい日々

にっぽんの色と文様

「絽の付下げ」に見る海辺の文様   波文様編

2018.07 09

ご存知の通り、甲府は周囲をぐるりと山々に囲まれた盆地である。北は秩父山塊、東は大菩薩嶺、南は富士山と御坂山地、そして西は北岳を頂点とする南アルプスと八ヶ岳。もちろんバイク呉服屋も、物心ついた時から山は身近な存在。世界遺産・富士山と言えども、家の二階からいつでも拝むことが出来るので、特別な山ではなかった。

山々の姿は、季節の移りを教えてくれる。富士山が雪帽子をかぶれば秋は深まり、南アルプスや八ヶ岳からの寒風は、冬の到来を告げる。そして山からは、水の恵みを受ける。深い山を源とする清流が幾つもあり、その水は桃や葡萄などの果樹栽培はもとより、豊かな農産物の生産に寄与している。もちろん水道の蛇口から出てくる水の味は美味しく、甲府の人がミネラルウォーターを買う話はほとんど聞かない。

さて、山には大変恵まれているが、悲しいかな海はまるで無い。太平洋へも行くにも、日本海へ出るにもかなり遠い。はじめて海を見たのは、小学校3年生頃だったように思う。茫漠と広がる大海原と抜けるような夏空は、子ども心にも鮮烈な印象だった。

 

今月に入り、各地の海辺では次々と「海開き」を行い、本格的な海水浴シーズンの到来を告げているが、夏のレジャーとして定着したのは、明治以降のこと。しかも最初の頃の海水浴は遊びではなく、ある種の療養であった。

幕末に西洋医学を学び、維新後に初代・陸軍軍医総監を務めた「松本順」という人物が、病気を治すために海に入る療法「潮浴(しおあみ)」を提唱する。すでに18世紀の中頃から、ヨーロッパでは海に入ることが一つの療法として実行されていたが、松本はそれに習ったのである。

海水に浸かることで、どれほど医療効果が上がったのか定かではないが、夏の陽射しを浴びながら、塩水に触れれば、新陳代謝はかなり促進されそうである。そして、心身ともにリフレッシュすることは間違いない。特に、我々甲州人のように、山に囲まれて窮屈な生活を送っている者なら、海の効果は抜群である。

 

海の始まりは、夏への扉。ということで、盛夏を彩るキモノや帯の文様にも、海や浜辺に関わるモチーフが幾つもある。そこで今日から二回、絽の付下げを使いながら、象徴的な海辺文様を見ていくことにしよう。今回のテーマはその中から、「波文」を取り上げる。

 

日本人は、春夏秋冬と四季がうつろいゆく中、その時々の気候や自然現象に深く寄り添いながら、生活してきた。もとより農耕民族であるからして、自然がもたらす万物事象を受け入れ、共存していかなければ生きてはいけない。そして繊細な日本人は、折々の花をはじめ、目に触れる全ての事象に時々の季節を感じ、旬の意識を強く持ったのだ。

だからこそ、キモノや帯の中で表現される文様やモチーフのほとんどは、自然とともに生きてきた、この国の人々の感性を象徴するものと言えるだろう。

 

そんな中でも、水に関わる文様は古くから意匠化されてきた。特に、水の流れを描く流水文や渦巻文、そして波しぶきを切り取った波文は、文様の草創期から出現していた。

例えば、すでに縄文時代晩期の土器には、渦や流線を用いて立体的に装飾がほどこされたものがあり、弥生期に入って大陸からもたらされた、金属器を使って作られた祭祀道具・銅鐸にも、渦巻文や流水文が描かれている。狩猟や漁労を中心とした生活の中では、水がもっとも身近で重要なものだったことは言うまでもなく、モチーフに使ったのは、ごく自然なことである。

その後流水や波文は、時代を下がるごとに様々に意匠化されるが、風景を表現するの中では欠かすことの出来ないモチーフとなり、多くの動植物模様を取り込みながら形を変えて、多彩にあしらわれていくこととなった。

 

(ブルーグレー地色 さざ波文様 手描き京加賀友禅 絽付下げ・清染居)

水をテーマにした文様でも、流水文はとうとうとした水の流れを表現することが多く、川をイメージさせる。それに対して波文は、しぶきをあげる一瞬を捉えて描くもので、これは海の文様である。

ただし単純に波の文様と言っても、表現される姿はかなり違う。岩にぶつかって豪快にしぶきをあげている荒々しい波は、「立波文」であり、この付下げのように、穏やかな表情を見せる波は、「さざ波文」である。波の姿をどのように表現するかにより、雰囲気は大きく変わることになる。

 

模様の中心となる、上前おくみ(左)と身頃(右)。この付下げは、波だけで図案を構成しているシンプルなもの。地色は、僅かに青みが掛かった、薄鼠色。模様の挿し色も、藍系の濃淡と白だけしか使われていない。

単純な模様だけに重々しさに欠けるものの、地色と波の配色はいかにも涼しげで、夏の意匠にふさわしい。この時期の付下げは、フォーマルとしての意識よりも、季節感を尊重している品物が多い。見る者の目を覚まさせるような、爽快さが必要となる。

 

おくみと身頃の柄を合わせてみた。仕立の際には、一つ一つの波をピタリと繋がるように合わせる。単純な模様だけに、ここがずれてしまうと格好が付かない。

この絽付下げは、京都の友禅工房・清染居(せいせんきょ)で製作された品物。清染居とは、明治期から続く友禅の家・上野家のことである。初代・上野清江(うえの せいこう)は、明治大正期の代表的な友禅師であり、京友禅でありながら、加賀の作風を取り入れ、写実的な図案で箔や繍を使わない、染だけを用いた京加賀友禅を確立した。

清江の後を継いだのが、次男の為二。京都美術工藝学校(現在の京都市立芸術大学)を中退して、友禅の道に入る。日本画家の西村五雲に師事して絵の手ほどきを受け、後に父の確立した京加賀友禅を継承する。そして1955(昭和30)年、重要無形文化財保持者(人間国宝)の認定を受ける。ちなみに、人間国宝の認定が始まったのは、この年からであった。なおこの時、友禅の世界からは、上野為二の他に三人が認定された。(京友禅・山田栄一と田畑喜八 加賀友禅・木村雨山)

為二は、人間国宝認定後わずか6年、59歳の若さで亡くなる。後を継いだのは、長男の忠夫氏と次男の清二氏。両氏ともに現在の清染居の前身・上野染織デザイン研究所を立ち上げ、友禅製作に取り組むものの、早逝してしまう。(忠夫氏は昭和62年・清二氏は昭和58年に没)。

現在、清二氏の妻・街子さんが、夫の名前にちなんで研究所の名前を「清染居」と改めて、友禅技術を受け継ぎ、製作を続けている。また、忠夫氏の長男・真氏(最近、二代目上野為二と名前を継承した)も、同じ友禅の道に進んでいるので、清染居・上野家の四代目は、街子さんと真氏ということになる。

 

リアルで写実的な波姿を、一本一本糸目を引いて表現する。単純な模様こそ、作者の技術が如実に出てくる。波の下部に付いている薄い藍色の暈かしなどは、加賀的な表現。現在作られている清染居の品物は何れも、清江・為二両氏の仕事・京加賀友禅の伝統を忠実に守っている。よって図案は、茶屋辻や写実的な模様がほとんどであり、もちろん中に箔や刺縫は入らず、染めのみで表現している。

「清染居」の落款。これが付いている品物は、上野家の流れを汲むものである。

 

流水や波が、写実的な風景文様の中に取り込まれ、描かれるようになったのは、平安後期から鎌倉期辺りから。政治の中心が京都から鎌倉へと移り、支配者も公家から武家へと変わる変革の時代。けれども、文化の中心を担っていたのは、やはり京都であり、権力は失ったものの、貴族的な生活様式は依然として残っていた。力を握った武家だが、貴族の優美な生活への憧れを持ち、次第にその様式を真似るようになっていった。

平安初期の文様は、まだ唐文化の影響を受けた正倉院文様に彩られていたものの、遣唐使の廃止以後、国風文化の勃興とともに、次第に絵画的な写実模様が表れてくる。これは、唐絵とは対照的な大和絵が現れたことと、無関係ではない。大和絵は、平安期の宮廷文学を題材にした物語絵であり、屏風や障子のような調度品に多く描かれていた。

平安密教を代表する真言宗の総本山、高野山・金剛峰寺には、「杜若が咲き誇る沼で、千鳥が遊ぶ風景」を描いた唐櫃(からびつ・経巻などを入れる収納箱)・「沢千鳥螺鈿蒔絵小唐櫃(さわちどり らでんまきえ しょうからびつ)」が残されており、この時代すでに写生的な風景文様を描いていたことが判る。

鎌倉期になり、写生的描写が増えたことは、貴族の情緒的な感性とは違う、武家の現実的な物象の見方と関わりがあるだろう。一つ一つの動植物の描き方を見ても、その写実感はより強まっている。そんな中で、波を取り込んだ海辺の文様は、鎌倉期の代表的な文様として、数多く描かれるようになるのだが、その理由は後述することにしよう。

 

(茄子紺色地 波に秋草と青海波模様 手挿し京型友禅 絽付下げ・トキワ商事)

薄物には珍しい、濃い地色。今が旬の夏野菜・ナスの色のような、紫を含んだ紺色を、茄子紺(なすこん)と呼ぶ。この付下げの色は、そこに僅かな赤みも感じられる。

夏の染モノの地色は、見た目の涼やかさを考えて、薄地のものが多い。銀鼠や薄水色、青磁色などが定番で、紫系であれば、浅い紫や藤色を使うことが多い。だが、濃い地色の場合は、下に白い長襦袢を着用すると、色が重なることで独特な映り方をする。これは、表裏一体で色を表現する「襲(かさね)の色目」と同じ論理である。濃地の薄物だからこその美しさがあると、言えようか。

 

模様の中心となる上前おくみ(左)と身頃(右)。静かなさざ波の中に、大波を配し、その波の中には桔梗と鉄線の秋草模様、そして青海波模様をあしらっている。波形は銀杏の葉のようにも見えるので、「銀杏波」とも呼べるのではないか。

最初の付下げは、モチーフを波そのものに絞って描いてあるが、こちらは、そこに模様を含ませ、「ひとひねり」を加えた図案。糸目置きは、型を使っているが、色挿しは手で挿されている。

おくみと身頃を合わせたところ。青海波を描いた波と、秋草を取り込んだ波、この二つの大波をきちんと合わせることが、仕立ての際には肝要。もちろん、線のように描いた白い波も、一本ずつきちんと合わせていく。

 

さて、なぜ鎌倉時代に、海辺の風景を多く描くようになったのかだが、それはおそらく、この時代の住吉社信仰によるものであろう。住吉社とは住吉神社のことで、ここに祭られている神は、海の守り手として知られており、平安期には和歌の神としても、信仰を集めていた。

住吉社の一の宮・住吉大社は、大阪湾に面した場所に立ち、周囲には海辺の景色が広がっていた。その風光明媚さも重なって、好んで写生されるようになったと思われる。そして描かれていた海の風景には、州浜や松、塩屋、釣り船、鳥居など、後に文様化するモチーフがたくさん登場している。

そしてまた、この付下げ図案のように、一つのモチーフの中に、もう一つの模様を取り込んだ、いわば複合的文様を多く描くようになったのも、この鎌倉期からである。扇面の中に秋草を描いたり、州浜の上に千鳥を舞わせたりする図案は、この時代の特徴的な文様でもあり、その意匠は、今も多くのキモノ図案の中で採用されている。

次回は、この複合的な海辺文様、州浜(すはま)文と海賦(かいふ)文を使った絽の付下げをご紹介しながら、さらに話を進めてみたい。

 

水は、人が生きる上では不可欠であり、源となる山や川は、我々の生活の中で常に密着しています。しかし、時として牙を向き、流れる水は家や田畑を流し、命さえも奪ってしまいます。

西日本に降り注いだ雨は、理不尽としか言いようのない災害をもたらしてしまいました。このところの激しい気象の変容は、温暖化を始め、様々な要因が重なり合って起こっていると言われています。大量の雨をもたらす「線状降水帯」は、どの地域にも出現し、決して他人事ではありません。

災害に遭われた方々に、深くお見舞いを申し上げるとともに、改めて自然と共生することの難しさを、心に刻みたいと思います。

今日も、最後まで読んで頂き、ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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松木 茂」プロフィール

呉服屋の仕事は時代に逆行している仕事だと思う。
利便性や効率や利潤優先を考えていたら本質を見失うことが多すぎるからだ。
手間をかけて作った品物をおすすめして、世代を越えて長く使って頂く。一点の品に20年も30年も関って、その都度手を入れて直して行く。これが基本なのだろう。
一人のお客様、一つの品物にゆっくり向き合いあわてず、丁寧に、時間をかけての「スローワーク」そんな毎日を少しずつ書いていこうと思っています。

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