バイク呉服屋の忙しい日々

ノスタルジア

昭和の残香が漂う、手直しの品々  羽織編

2018.02 16

「降る雪や、明治は遠くなりにけり」と、俳人・中村草田男が詠んだのが、1931(昭和6)年のこと。

これは、雪の降る日に、自分の母校である青南小学校(現在の東京港区立青南小学校)を20年ぶりに訪ね、その時の思いを詠んだ句である。懐かしい校舎は変わらないが、在校する子どもたちは、金のボタンが付いた上等なコートを着ている。自分が通っていた明治の頃は、黒い絣のキモノと下駄を履いていたというのに。

明治と昭和、間に大正という時代を挟んではいるが、僅か20年のこと。だが、子どもの服装一つとっても、自分が小学生だった頃とは、あまりに違う。ここに草田男は、時の流れを強く感じて、思わず「遠くなりにけり」と感慨を深くしたのであろう。

 

来年の5月、天皇陛下は退位され、それに伴い年号も変わる。従って、平成も31年までとなる。では平成とは、一言でどのような時代だったのか。やはりそれは、ITの進歩により、便利で効率的な生活を享受出来るようになったことに、象徴されるであろう。昭和の頃には、こんな時代がやって来ようとは、とても想像出来なかったはずだ。

簡単に人と繋がり、情報を受けることが出来ると同時に、たやすく自らが発信者ともなり得る。これまで、人を介さねば出来ない多くのことが、ボタン一つタッチするだけで可能になった。私のような昭和世代にとって、スマホなど「魔法の杖」にしか思えない。これは草田男が、小学生の服装の変貌に驚くどころの話ではない。

 

そんな意味でバイク呉服屋も、平成が終わるに近づき、改めて「昭和は遠くなりにけり」と感慨を深くする。

けれども呉服屋の仕事の中では、まだ昭和が息づいている。それは、お客様から依頼される手直しの品々。その多くが30年の時を越え、昭和の時代からやって来る。ひと世代前の人が愛用した、まさに「昭和の香りを残す品物」である。

そしてこの品物たちは、今新たに作ることは稀であり、昭和という時代だからこそ、愛された側面がある。今日は、お客様から預ったノスタルジックな品々をご紹介しながら、改めてその時代を見つめてみたい。

 

手直しのために預った品々。昭和から平成へと、まさに「時を駆ける羽織」。これには、原田知世もびっくり。インド人もびっくり。ギャグのネタも昭和すぎて、もう一つびっくり。

少し冗談が過ぎてしまったが、預る品物の中で、最も昭和を色濃く残すものは、何と言っても羽織である。和服が日常の中に根付いていた時代は、おそらく昭和40年代までで、皆様の中には、母や祖母の着姿を思い起こす方も、多いだろう。

当時の普段着は、紬や小紋を中心としながら、ウールや木綿なども家着として使っていた。白い割烹着をキモノの上に着て台所に立つ姿などは、どこの家でも当たり前のように見られた。

 

そんな女性達にとって、欠かすことの出来ない品物が、羽織だった。羽織はキモノの上に着用するものでも、コートとは違って、室内で脱ぐ必要は無い。今と違い、外気が入りやすい構造の家がほとんどであり、暖房機材も乏しい時代。やはり上に羽織るものが無ければ、冬を過ごすことが辛かった。そのため、羽織は必需品であったのだ。

また羽織を着れば、帯姿は前しか見えなくなるため、簡単な半巾帯を使い、楽に着装する人が多かった。そして、近所の買い物などへは、割烹着を脱ぎ、羽織をひょいっとかけながら買い物カゴを下げて、出掛けていった。これも昭和的な光景の一つである。

では昭和の羽織とは、どんな品物なのか。その作り方は、絞りあり、小紋あり、御召ありと多彩であり、模様も、総柄や飛柄、絵羽モノと多様である。では、手直し依頼品の一部をご紹介してみよう。

 

薄グレー地 有松杢目(もくめ)絞り・羽織

今日の稿で取り上げる羽織のうち三点は、同じお客様の品物。この方は、東京・国立市在住で、中央線の特急に乗り、わざわざバイク呉服屋まで持ってこられた。彼女とは、このブログを通じて、お付き合いを頂けるようになり、ご依頼は今回で二回目。

手荷物ケースに9点もの品物を入れて、ご相談に来られたが、キモノは絽小紋など薄物中心に4点、後は夏冬の羽織・コート類が5点。いずれも、自分のお母さまと、ご主人のお母さまが遺された品物だと話される。どの品物も、ひと世代前の方が愛用した、昭和の香りが色濃く残る日常着である。

最初の羽織は、杢目絞りで模様を表現したもの。木目のように見える不規則な縦皺が、この絞り技法の特徴。藍色の濃淡で映した木目が全体に広がる、優しい雰囲気の羽織。

杢目絞りは、生地に描いた線に従い、木綿針で細かく運針して縫いとっていく縫い締め・平縫絞の中の一つ。この技法は、5~10ミリ間隔で総縫した上で、糸を引き締める。そうすると、染料の入らないところと、入ったところに分かれて、木目のような縦の筋が表れる。

絞り独特の柔らかな模様の映り方が、この羽織にも見える。こんな色合いだと、下のキモノの色を選ぶことなく、使うことが出来る。おそらく昭和の時代には、様々な小紋や紬の上に着用され、活躍していたのだろう。

 

紋織薄サーモンピンク地 吹雪模様捺染小紋・羽織

一見、無地のようだが、どことなく曖昧な色で暈されている。これは、この羽織生地を染める際に、叩(たた)きという加工が施されているため。模様は、蒔糊加工と同じく、雪が舞い散るような斑点状のものが見えるが、この小紋の場合はおそらく、捺染の際に、型を付けるロールの上で点を刻み込んだものと思われる。

全体に小さな色粒が、不規則に飛んでいる。これが、羽織の色目を暈し、雰囲気を和らげる役割を果たす。生地には、三盛(みつもり)亀甲に花菱の地紋が、浮き上がる。

虹のようで、いかにも春らしい色の羽織。無地感覚のものだけに、カジュアルとフォーマル双方に使っていた品物かもしれない。この時代多くの人が、季節に応じて、色や模様を使い分けていた。

 

黒地 小笹模様 十日町マジョリカ御召・絵羽織

今日御紹介する品物の中で、最も昭和を色濃く残すものが、このマジョリカ御召。

若い方々には、マジョリカとは、何とも不思議な名前かと思われるが、これは地中海西部に浮かぶマジョリカ島(現在はマヨルカ島と表記されている)でルネサンス期から生産されていた陶器にちなみ、付けられた製品名である。

マジョリカ陶器の特徴は、歴史上の一場面や風景をモチーフにし、これを白い地で色鮮やかに、明るく表現したもの。このカラフルさをイメージして十日町で製作したものが、このお召であった。

戦前の十日町は、明石縮の生産地として知られてはいたものの、先染織物産地の中では、東京の八王子や群馬の桐生・伊勢崎より小規模であった。そこで、何とかヒット商品を生み出し、産地を活性したいと考え、新製品の開発に乗り出したのだ。

元々は織物産地である十日町では、柔らかい印象を残す染モノの雰囲気を、織で表現できないかと考え、行き着いたところが、緯糸を絣捺染して紋図上にのせるという技法。その結果完成した品物は、自由に描いた模様を、金銀糸や明るい糸を織り込んで表現されるという、その当時としては、画期的なものであった。

羽織の模様の中で、光を放つ織糸。これがマジョリカの特徴。この技法を使った製品は、着尺や訪問着、羽織など多方面にわたった。

マジョリカ御召の生産は、1958(昭和33)年に始まり、キラリと光る斬新な模様の映りが評判を呼び、あっと言う間に大ヒット商品となる。生産開始の翌年、昭和34年の生産反数は3万反であったが、4年後の37年には18万反と6倍も増加。産地は湧きに湧いた。

 

しかしブームは、僅か5年あまりで終わり、十日町ではマジョリカに代わる新たな製品を求められる。そこで生産を始めたのが、黒絵羽織である。高度経済成長のただ中にいるこの時代、母親達の衣装に対する関心は高まりつつあり、そんな中で黒羽織は、子どもの入学・卒業の晴れの席で着用する品物として、定着していった。

黒絵羽織の生産最盛期は、1969(昭和44)年の110万点。この頃、無地のキモノに黒羽織を羽織る姿は、母親達の定番となり、当時「PTAルック」と呼ばれた。十日町で生産した黒羽織は、20年で1100万点にものぼり、いかにこの品物がもてはやされたかを、伺い知ることが出来る。

黒羽織の後姿。控えめで小さな花模様を、光る糸で織り出している。

このお客様・K様は、バイク呉服屋と同世代。ということは、昭和40年代は小学生だったはず。これはまさしく黒羽織最盛期にあたり、この羽織は母親がPTAルックとして愛用していたものに違いない。黒羽織は、昭和50年代に入ると急速に姿を消し、今や入学・卒業の場で、その姿を見ることは無い。もちろんマジョリカ御召も、黒羽織も、遠の昔に生産を止めている。

この羽織の中で、もう一ヶ所目を惹くのが、羽裏。型友禅で、ボタンに孔雀を描いた大胆で色鮮やかなもの。こんな華やかな羽裏など、今ではとても見つけることは出来ない。着用された方の、お洒落な一面を見た気がする。

依頼者のKさんは、丈の短さが気になっていたようだが、店で羽織ってもらうと、長さに違和感が無い。小柄な方なので、お母さんの羽織丈・2尺程度でも十分格好が良い。今は、丈が2尺4寸以上ある長目の羽織を作ることが多いが、この短い「昭和スタイル」も、なかなかレトロで美しいと思う。

ということで、今回の手直しは、汚れのある品物は、しみぬき補正し、袖丈だけを直した。また、裄丈は昔の並寸法・1尺6寸5分で良く、そのまま使うことが出来た。

 

最後に、羽織の寸法直しについて、実際の品物を使ってお話してみよう。

赤煉瓦色 笹りんどう模様 型小紋・羽織

ひと昔前まで、羽織や道行コートを作る時には、羽尺という専用の反物が存在していた。だが、この品物の総尺は、2丈5~6尺と短かかったために、どうしても羽織丈の長さに制限がかかり、今流行しているような長丈に作ることは出来なかった。この小紋羽織も、羽尺反物を利用しているために、丈が2尺1寸と短い。

実はこの品物、裄丈を直すために、袖付と肩付を解いてある。羽織の裄や袖丈直しも、キモノの時と同じ手順。裄直しの場合は、袖付と肩付を解き、どのくらい生地が縫いこんであるかを確認し、袖丈直しなら、袖下を解いてみる。

裄の長さの範囲は、反物の巾とリンクしており、元の反物の巾が狭いと、思い通りにならないことがある。特に昭和の時代に作った羽織では、元の羽尺反巾が、9寸5分まで無いものも多く、これだと裄丈は、どんなに長くても、1尺7寸5分程度にしかならない。昭和の女性は、裄が1尺8寸以上も必要な方は、ほとんどいなかったので、短い反巾で良かったのだ。

袖丈に関しては、縫い込みが1寸5分程度入っているものがほとんどだが、元の寸法が1尺1寸程度だと、標準丈の1尺3寸にならない。これは、身長の小さな人や年配の方には、袖丈を短くする傾向があったためである。

生地の解きが済むと、前の縫いスジを消し、希望する寸法通りに縫い直す。中には、表地はあるが裏が足りないケースもある。上の画像は、スジ消しを終えた肩付と袖付を拡大したものだが、肩付側に白い裏地が見える。この羽裏の縫込みも確認する必要がある。もし足りなければ、ハギを入れて裏を足すか、裏地をそっくり替えてしまうか、考えなければならない。

最後に、最も羽織の直しで需要が多い、羽織丈を直す時にポイントとなる場所について、お話しておこう。

結論を先に言えば、問題になるのは、縦衿に縫込みがどのくらい入っているか、である。画像の最下部、衿の先端を触ると、縫込みの有無が判る。昭和の羽織だと、2寸程度しか入っていないものが多い。これも、反物総尺が短いためのことで、どうにも致し方ない。身頃には返し生地があるので、十分長く出来るが、衿に縫込みが無ければ、形にはならない。羽織丈を長くしようと考えておられる方は、ぜひ縦衿の衿先に注意を払って頂きたい。

そして、羽織を直す時には、ぜひ、合わせて使う予定のキモノの寸法を確認されたい。羽織とキモノの裄、袖丈が合っていないと、生地が中で丸まったり、外へ飛び出したりするような、不具合を起こしてしまう。

ということで、もし皆様が、昭和のキモノや羽織を手に入れられた時には、無理に自分の寸法にしようとせずに、生地の縫込みの範囲内で、出来るだけ長くと考えれば良いように思う。昭和レトロな、少し短めな羽織もまた、趣があるのではないだろうか。

 

今日は、手直し依頼の羽織を通して、話を進めてきた。皆様には、毎日の暮らしの中にキモノや羽織が息づいていた昭和の時代を、感じ取って頂けただろうか。また違う品物をご紹介しなら、このテーマで稿を続けていきたい。

 

「時をかける少女」は、これまで何回も映画化されているので、ストーリーをご存知の若い方も多いでしょうね。最近では、2010(平成22)年で、主演は仲里依紗さん。我々世代ではやはり、1983(昭和58)年に原田知世さんが主演した、映画化初作が思い出されます。この映画の原作者は、SF作家の筒井康隆。小説として発表されたのは意外に古く、1967(昭和42)年。

「インド人もびっくり」というフレーズは、1964(昭和39)年にエスビー食品が発売した、カレールーのテレビCMから生まれたものです。おそらく、インドの人もびっくりするほど、このルーを使うカレーは旨いという意味でしょうが、インド=カレーという発想に、何とも昭和的な短略さが見えています。

いずれにせよ、昭和と言う時代は、どんどん遠くなっていく気がします。今と比べると、とても不便でしたが、それが懐かしく、かけがえのないものを失ったようにも思えてきます。

お客様からお預かりする昭和の品物には、時代の香りが残っています。バイク呉服屋も「昭和の人間」なので、ぜひ時を越えて使って頂けるように、出来る限りの努力をしたいと考えています。

今日も、長い話にお付き合い頂き、ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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このブログに掲載されている品物は、全て、現在当店が扱っているものか、以前当店で扱ったものです。

松木 茂」プロフィール

呉服屋の仕事は時代に逆行している仕事だと思う。
利便性や効率や利潤優先を考えていたら本質を見失うことが多すぎるからだ。
手間をかけて作った品物をおすすめして、世代を越えて長く使って頂く。一点の品に20年も30年も関って、その都度手を入れて直して行く。これが基本なのだろう。
一人のお客様、一つの品物にゆっくり向き合いあわてず、丁寧に、時間をかけての「スローワーク」そんな毎日を少しずつ書いていこうと思っています。

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