バイク呉服屋の忙しい日々

にっぽんの色と文様

郷愁を誘う、にっぽんの農民絣(2) 四国・松山 伊予絣

2017.11 15

船で海を越えなければ辿り着けない場所には、独特の旅情を感じる。デッキで海風に体を委ねながら、まだ見ぬ土地に思いを馳せると、改めて遠く旅に出ていることを実感する。そんな感傷に浸れるのも、船旅ならではである。

つい30年前までは、北海道と四国に渡るためには、飛行機を利用する場合を除けば、必ず船に乗らなくてはならなかった。それぞれ本州との間には海が広がり、地続きでは無かったからだ。

 

本州と北海道・四国が繋がったのは、ほぼ時を同じくする。青森と函館を結ぶ青函トンネルの完成が、1988(昭和63)年3月。岡山・児島と香川・坂出を結ぶ瀬戸大橋の完成が、同年4月。これに伴い、47都道府県のうち、本州と地続きになっていないのは、沖縄県のみとなった。

トンネルと橋の完成で、それまで本州と、北海道・四国を繋いでいた連絡船は廃止された。青函連絡船と宇高連絡船である。実は、このトンネルや橋の建設は、この二つの航路で起きた重大な事故が、契機になっている。

 

1954(昭和29)年9月に起こった、青函連絡船・洞爺(とうや)丸の事故は、日本海で急速に発達した台風15号(マリー台風)の強風が吹く中、函館港を出港した洞爺丸が、函館湾外の七重浜で座礁、転覆したもの。死者・行方不明者は1155人。タイタニック号の犠牲者1500余名にも匹敵するもので、現在でも日本最大の海難事故として記憶されている。

このわずか半年後、1955(昭和30)年5月に、宇高連絡船・紫雲(しうん)丸が沈没する事故が起こる。濃霧の中、高松港を出港した上り連絡船・紫雲丸と、宇野港からの下り貨車船・第三宇高丸が瀬戸内海で衝突。双方の船は共に、当時の国鉄が運行していた。紫雲丸の乗客168人が亡くなり、その中の108人は、修学旅行中の小学校6年生だった。多くの子どもが犠牲になったことで、この事故の悲惨さは、より多くの人に印象付けられた。

二つの事故から、およそ半世紀。現在北海道では、函館まで新幹線が走り、四国には瀬戸大橋の他に、神戸・鳴門間に明石海峡大橋、尾道・三原間にしまなみ海道が作られ、鉄道と車が自由に行き交う。失われた尊い命と、先人達の安全への思いが、二つの道の礎となっていることを、心に留めて置くべきかと思う。

 

さて、四国へ渡る国鉄の連絡船と言えば、宇野と高松を結ぶ宇高航路だけと認識されることがほとんどだが、もう一つ知られざる連絡船があった。広島県呉市・呉線の仁方(にかた)と、愛媛県松山市・予讃線の堀江を結ぶ仁堀航路である。

仁堀連絡船は、1982(昭和57)年の7月に廃止になるが、一日2往復で、所用時間は1時間40分。仁方・堀江ともに小駅で、四国へ旅行する者が乗船することは皆無。広島や愛媛の地元の人さえほとんど知らない、マイナーな航路だった。

 

堀江町は松山市郊外の小さな港町。県道184号で南に下れば、15分ほどで市の中心に着く。その点でも仁堀航路は、広島から松山の中心へ行くには、大変便利な船だった。数々の山陰の絵絣や、江戸文久年間に、備後藩の福山近在の農村で織り始められた備後絣には、こんな瀬戸内の航路を辿り、伊予の絣技術が伝えられたのではないか。

という訳で長々と前置きを書いてしまったが、今日は、今に伝わる木綿農民絣の第二回として、伊予絣を取り上げることにしたい。

 

(濃藍地 斜め立枠に菱とバラ模様 伊予絣・白方興業)

皆様は、四国四県といえば、それぞれに何を思い出されるだろうか。香川は讃岐うどん、愛媛はみかんと道後温泉、あるいは夏目漱石の「ぼっちゃん」。徳島は阿波踊りとすだち、高知は坂本竜馬に鰹のたたきあたりか。

いずれにせよ、海も山もある温暖で素朴な土地というイメージが広がる。実際にどの県でも、瀬戸内海沿岸に広がる一部の工業地帯を除いては、農林漁業が主たる産業になっている。

 

中国山地や山陰地方に、特徴ある綿織物が多く存在するように、四国各県にも、江戸期より地域性豊かな木綿の織物が幾つも生まれた。その理由は、やはりこの時期に、藩で綿栽培を奨励したこと。特に、四国の場合には、阿波地方が藍産地だったことで、糸染め原料が手に入りやすかった。そのため四国各地の農村では、農作業の閑散期・冬場に、綿を織る仕事が定着していった。

今日御紹介する伊予絣は、四国の綿織物の中で、もっとも良く知られた存在で、これまでの生産数も飛びぬけて多い。その前に、伊予以外の場所で織っていた四国の綿織物について、少しお話しておこう。

 

まず讃岐・高松の保多(ほた)織。これは、17世紀末の天保年間に、当時の藩主・松平頼重が幕府への貢納品として、独自の織物生産を試みたことに始まる。藩では、天皇への献上織物を生産していた北川伊兵衛常吉を、京都から呼び寄せ、独自の絹織物を開発する。この織物は、非常に堅牢で、長く着用出来るものだったことから、藩主の松平頼重は、「永保多年に使える品物」と賞賛した。保多織という名前は、この「永保多年」から取られている。

江戸期の保多織は、絹織物であったが、明治に入って綿織物に転換する。保多の綿織は、経緯を交差させる三回の平織の中に、一回糸を浮かせる浮織が入るという、いわば変型の平織。これにより、生地表面に凹凸が出来て、独特の風合いとなる。

江戸期から、この織技法は門外不出の秘伝とされてきたが、北川伊兵衛・北川家と縁戚関係にあった岩部恒次郎が、絹から木綿へと素材を変えた。現在は、恒次郎から4代目にあたる岩部卓雄氏により、なお保多織の伝統が守られており、綿反のほかに、シャツやブラウス、ネクタイや巾着・帽子など、様々な小物類の生地として織り続けている。

 

徳島・阿波はしじら織。生地表面に細かい縦シワのあるこの綿縮は、肌離れの良い夏の薄物として、良く知られている。江戸時代、阿波藩を支配していたのは蜂須賀氏だが、代々この殿様は、支配下の庶民に絹モノの着用を禁止した。そのため、阿波の人々は木綿や麻を使うより他なく、否応無く綿織は盛んになった。

江戸期の阿波綿織は、経糸を引き揃えて織ることから、湛織(たたえおり)と呼ばれた縞モノであった。明治期になり、この湛縞を織っていた海部ハナという女性が、家の外で織物を干していたところ、急な雨で濡らせてしまった。翌日、これを天日で乾かしてみると、生地表面に凹凸を発見する。この自然に出来た縮が、しじら織のヒントになったのだ。

ハナは、この独特のシボを、張力の異なる二本の経糸を使うことで、織りだすことに成功する。この品物は、当時太物問屋を営んでいた、伊予屋・安倍重兵衛という人物が一手に販売を引き受け、阿波しじらと命名した。最盛期には、しじら業者は5千人、生産数は200万反とも言われたが、現在は数軒を残すのみ。阿波しじらは、藍生産の本場だけに、糸染料のほとんどが天然藍である。

 

土佐・高知にも、18世紀末の天明年間の頃には、地場で生産していた綿織物があった。旧香我美町(現在は香南市)の岸本・赤岡地区が生産の中心地だったことから、岸本縞あるいは赤岡縞の名前で呼ばれていた。この地域は、高知市の東で、土佐湾に面した農村地帯。高知龍馬空港にほど近い場所。

生産は戦後まで続き、名称は岸本縞から土佐綿紬へと変わった。主に農漁村の生活衣料の生地に使われ、特に「もんぺ」には、この土佐綿紬生地のものが多く見受けられる。10年ほど前までは、香南市の濱田織物という会社だけで生産を続けていた。現在、高知市に店を構える「ほにや」という、よさこい衣装や布雑貨を扱う店の主人が、この土佐紬の復活を試みている。

 

絣模様を拡大してみた。横波のような立枠の中にある菱状の絣と、バラの花絣。

伊予地方で綿織物が始まったのは早く、すでに江戸初期には伊予木綿と称した織物があり、松山近在の農家では農閑期の副業として生産されていた。それが19世紀初頭、松山城下の松前町で織屋を営んでいた菊屋新助という人物が高機を改良発明したことで、大きく発展する。この高機で織った織物のことを、伊予結城とか松山縞と呼んでいた。

そして数年後の享和年間には、絣が生まれている。きっかけは、阿波しじらが生まれた時のように、ほんの些細な出来事だった。その頃、松山市南部の今出(現在の西垣生町あたり)の農家に、鍵谷カナという女性がいた。彼女が見たものは、藁屋根をふき変えている時に表れる、押し竹を縛った縄の結び目。これが美しい斑紋のように映り、文様を綿織の中で再現できないかと考えた。それが、絣が生まれる原点である。

なお、押し竹というのは、藁葺き屋根を葺き替える時、屋根に敷き詰めた茅の上に置く長い竹のこと。この竹と、基礎の骨組みとして組んである乗り木(あるいはえつり竹)を結び、そこに茅を挟み込む。この独特な結び方を「とっくり結び」と呼ぶが、おそらくカナさんは、こんなとっくり結びの結び目が屋根の側面に並ぶ姿を、「美しい斑紋」と見たのであろう。

 

伊予絣の初期こそ、絣糸は手括りで、手機を使っていたが、明治中期以降は機械括りが主になった。戦後は、括り専門の絣製造工場があり、組合が一括して管理していた。精練と漂白後に、水洗いと乾燥を済ませた絣糸は、絣括り機にかけると、設計図のままに括ってくれる。

また製織も、手織りだと熟練者でも半反がやっとのところ、機械機だと二反半をも織り成す。当初は近郊の農家の需要を満たす程度だったものが、丈夫で廉価なことが評判となり、全国から引き合いが来るようになっていく。それは野良着や布団地として、農家や庶民の生活には欠かせない必需品だったからである。そんな需要の高まりが、いち早く機械化が進んだ大きな要因であろう。

もっとも多い生産数は、1907(明治39)年の、年間246万反、大正期になっても200万反を越える生産が続けられ、伊予絣は、綿織物として全国一の生産量を誇っていた。

 

以前糸染めには、本藍を使っていたが、現在はほとんどが化学染料による。画像では、この品物が機械ではなく手織りであることを示すシールが、証紙と共に貼ってある。

この品物を織ったのは、白方興業という会社で、現在伊予絣の生産は、ほぼこの会社に限られている。白方興業とは、何とも織屋らしからぬ名前だが、以前は白方機織所と名乗っていた。

白方機織所は、まだ15万反もの絣生産を行っていた1951(昭和26)年に、タオル製造を始めている。その頃は、まだまだタオルよりも絣が収益の主力であり、まさかこれほど絣が廃れるとは、思いもしなかったに違いない。けれども昭和30年代に入ると、急速に絣の需要は無くなり、衰退の一途を辿る。

昭和40年頃には、絣製造は赤字続きで、タオル製造がその穴埋めを果たしていた。白方興業と社名を変更したのも、ちょうどこの頃(昭和42年)であった。当時200軒以上あった伊予絣の織元も20軒に減り、すでに存亡の危機を迎えていた。

 

「このままだと伊予絣は、そう遠くないうちに滅びる」。当時、白方興業の社長・白方大三郎氏は、危機感をつのらせていた。白方家は、もともと精米業を営んでいたが、活況を呈していた伊予絣生産を見て、織物業に転進する。1923(大正12年)のことで、大三郎氏は創業者であった。

どのようにすれば、伊予絣を残すことが出来るか。ヒントは、松山市・道後温泉を訪れる多くの観光客の姿だった。松山を訪ねる人達に、何よりもまず伊予絣のことを知ってもらうことが先決。そこで、絣に関する資料館、または民芸館に近いものを建設したらどうかと、考えた。

こうして出来上がったのが、松山市中心から少し北・久万の台町にある「民芸伊予かすり会館」であった。オープンは、1973(昭和48)年の7月。会館内には、昔使った手機の高機や、糸を巻き取る糸車、さらに古い絣見本が展示され、伊予絣の歴史を知ることが出来る。そして、絣の製造工場も、会館内に設置されている。観光客は、織工程を自由に見学することも可能だ。

 

伝統的な織物産地の中で、この手の資料館を民間業者、それも一軒の織屋だけで建設運営することは、大変珍しい。建設費や維持費を考えれば、二の足を踏んでしまうことは、容易に想像出来る。しかし、伊予絣を未来へ繋ぎたいという白方興業の思いは、確かに強かったのだ。

もともと久万の台は、白方興業の織工場や倉庫があったところ。今も、会館内に設けられた織場で、少しずつ伊予絣は生産され続けている。今日御紹介した「菱とバラ絣」も、このかすり会館に設置された高機で手織りされた中の一点、ということになろう。

すでに、会館設立から44年。現在、絣づくりの見学はもとより、藍染の体験コーナーや、外国人向けに伝統工芸品を紹介する「Art Labo KASURI」と名付けた展示室も備えられている。もちろん伊予絣の反物や、絣生地を使った様々な小物類も、購入出来る。

観光シーズンには、道後温泉の宿泊客を乗せた大型バスが、何台もかすり会館の駐車場に並ぶ。今や、松山の観光スポットとして、すっかり定着している。来館者は、絣生地を使った小物を、土産品として選んでいくことが多いようだ。

伊予絣の生産そのものは、限りなく少なくなっているが、松山を訪れる観光客がある限り、品物は決して無くなりはしない。たった一軒の織屋の意思は、懐かしい農民絣を、今に残した。

 

今日は、品物そのものの説明よりも、衰退する伝統工芸品を守り抜いた一軒の織屋にスポットを当てて、話をすすめてみた。伊予絣における白方興業のような事例は稀ではあるが、希少になった地域の伝統品を残すヒントが、隠されているようにも思える。この稿の次回は、久留米絣を取り上げてみたい。

 

NHKの朝の連続テレビ小説「わろてんか」。その中で、鈴木保奈美さんが母親役を演じていますね。バイク呉服屋には、東京ラブストーリーの赤名リカの印象が強いため、彼女が母親の役回りをする年齢になったことに、ひどく感慨を覚えます。

松山は、東京ラブストーリーの中で、リカとカンチが別れる舞台となった場所。ロケ地は、大洲や伊予鉄道の梅津寺駅周辺でした。純朴な四国の風景と東京との対比が、ドラマの中では、大きな役割を果たしていたような気がします。

伊予絣と、道後温泉と、東京ラブストーリー。懐かしい昭和の風景を巡る四国の旅へ、皆様もおいでんか(伊予弁・お出でになりませんか)。

今日も、長い話にお付き合い頂き、ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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松木 茂」プロフィール

呉服屋の仕事は時代に逆行している仕事だと思う。
利便性や効率や利潤優先を考えていたら本質を見失うことが多すぎるからだ。
手間をかけて作った品物をおすすめして、世代を越えて長く使って頂く。一点の品に20年も30年も関って、その都度手を入れて直して行く。これが基本なのだろう。
一人のお客様、一つの品物にゆっくり向き合いあわてず、丁寧に、時間をかけての「スローワーク」そんな毎日を少しずつ書いていこうと思っています。

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