バイク呉服屋の忙しい日々

にっぽんの色と文様

郷愁を誘う、にっぽんの農民絣(1) 山陰・鳥取 弓浜絣

2017.08 20

昔の夜汽車には、独特の風情があった。4人掛けの狭い座席で一夜を過ごし、浅い眠りから目覚ると、窓の外には、朝靄に煙る素朴な風景が広がっている。遠くへ旅に出ていることを、強く感じさせてくれたものだ。

今と違って、電気化されていないために、客車を牽引しているのはディーゼル機関車。発車するたびに、「ピュー」という汽笛を鳴らし、ガックンと動き出す。車両は古く、床や座席は木製で、それを何度もニスで塗り返しているために、煮詰めたような色になっていた。夜汽車と言えば、私は真っ先にこのニスの匂いを思い出す。

もちろん、クーラー設備などなく、暑い時期には窓を開け放す。トイレは水洗ではなく垂れ流しで、降車ドアは手動。今思えば、衛生面からも安全面からも、とても考えられないような列車だった。だが、走っている時の外風の心地よさや、停車した時の静寂さは、いつまでも忘れ難い。

 

全国に張り巡らされた新幹線網により、夜行列車はほとんど消えた。現在、定期運行されているのは、四国と山陰を結ぶサンライズ号(東京ー高松、出雲市)だけである。これとて、設備を整えた寝台電車特急なので、バイク呉服屋が思い浮かべる「ありし日の夜汽車」の姿は、どこにもない。

「乗客の特別な旅」を演出する、動く高級ホテルのような豪華な列車ならば、これからいくらでも企画されるだろう。すでにJR九州の「ななつ星」や、今年5月から運行されているJR東日本の「四季島」などは、2、3泊で数十万円も掛かるというのに、予約もままならないほど人気を集めている。

鉄道が移動手段ではなく、乗ることそのものが旅と位置付ける。だからこそ、列車内は非日常の特別な空間でなければ、乗客を満足させることは出来ない。このコンセプトがあるから、豪華な車両を作り、豪勢な食事を提供し、贅の限りをつくしたもてなしがなされる。

豪華列車が停車する駅では、地元の人々がこぞって出迎え、乗客は特別なおもてなしを受けるらしい。だがこれを考えて見れば、迎える側の人々が、来客者に見せるのは、よそ行きの顔である。つまり、来る客ももてなす側も、非日常の姿となっているのだ。

 

夜汽車は、人々の日常の中に息づいていた。ふるさとへ戻る人、仕事で出張する人、安旅に出る若者。そこに特別な人は、誰もいない。もちろん終着駅に降り立てば、その土地の変わりのない日常の姿だけがあった。

どんなに古い車両であっても、座席で窓を開けるだけで、風を感じ、虫の音を聞き、駅弁売りを呼び止めることが出来るような列車は、もう二度と走らない。永遠に戻らない過去だからこそ、その姿に郷愁を覚える。

 

ノスタルジーをかきたてるのは、鉄道ばかりではない。これまで呉服屋が扱ってきた品物にも、そんなものがある。幸いなことに、全てが過去の中に消えた夜汽車とは違い、今も僅かながら残っている。

その代表的なものが、木綿の農民絣である。そこで今日から三回に分けて、日本各地で細々と織り続けられている、素朴な絣織物を御紹介することにしたい。まず、第一回は、山陰・鳥取の弓浜絣から話を始めてみよう。

 

(木綿 弓浜絣・九寸名古屋帯  海老に流水模様と麻の葉模様)

織物の産地は、全国各地に広がっている。北は、北海道の先住民族・アイヌやギリヤーク、オロッコ人などが伝承してきた文様を織り出した「ユーカラ織」、南は、八重山群島の石垣島や竹富島で織られている「八重山上布」や「竹富ミンサー」。

南北2800キロにも及ぶこの国では、これまで幾多の織物が生まれてきた。しかも、生産地ごとに原料や染料は異なり、織工程も、表現される文様も異なる。個性豊かな数々の織には、それぞれの土地の風土や歴史、またそこに生きる人々の生活がかいま見える。

織物の発祥は、原料や染料と大きく関わっている。例えば結城紬の原点は、「長幡辺の(ながはたべ)のあしぎぬ」という太織の紬であり、堅牢で耐久性に優れていたことから、鎌倉期の武士達の間で、広く使われていた。この頃、結城に居を構えた源頼朝の庶子(正室の子ではない)・源朝光が機織を奨励し、それは常陸紬と名前が付いた。古来から鬼怒川両岸に広がるこの農村地帯では、綿栽培や養蚕が盛んであり、原料の確保が容易だったことが、結城が生産地となる大きな要因であった。

 

それぞれの産地の歴史を辿ると、キリがなくなるのでやめておくが、幾多の織物の中でも、もっとも素朴で、古くから庶民の生活に根付いてきたものと言えば、真っ先に木綿の絵絣が思い浮かぶ。

農家の主婦の手でくくられた絣糸は、経や緯の絣糸の重なりが自然にずれることで、美しい絣模様を生み出す。そして、絣を組み合わせては、様々に絵模様を表現する。これが絵絣である。

農民絵絣は、江戸中期に各地に木綿栽培が奨励されて以降、全国至る所で織られるようになっていく。また丁度この頃は、藍染めを請け負う「紺屋」も数多く生まれる。これは、江戸期に度々出された奢侈禁止令により、庶民は地味な藍色のモノを着用する以外になかったことが、原因であった。藍で染めた綿糸を使った織物は、大変丈夫で持ちも良く、その上藍染料は虫除けにもなることから、農民の仕事着=野良着としては、最適だった。そして、キモノだけではなく、布団地などの夜具にも用いられていった。

 

農民が育てたともいうべき絣織物は、戦後この国が急速に経済成長し、人々の生活様式が大きく変化していく中で、完全に取り残され、まさに前代の遺物と化して、衰退していく。

けれども、この生活に根付いた織物を、何とか守ろうと努力し続けている人が、まだ僅かに存在している。今、我々が品物を目にすることが出来るのは、「織物を絶やすことは出来ない」という崇高な意識を持ち、生産を続けている職人達のお陰である。

 

(海老に流水模様 弓浜絵絣・村上絣織物)

江戸期に生まれた主な農民絣には、宝暦年間(1750年頃)の米子絣、寛永年間(1800年頃)の久留米絣、文政年間(1820年頃)の倉吉絣・広瀬絣、文久年間(1860年頃)の備後絣などがある。

言うまでもなく、絣の原点は琉球絣であるが、これがどのような「絣の道」を通って、技法や文様が全国各地に伝播していったかは、はっきり判っていない。

仮説の一つは、まず、琉球を侵略した薩摩藩に伝わり、それが同じ九州の久留米を経て、四国の伊予へ、さらに瀬戸内海を渡り、山陽の備後や、山陰の米子や広瀬に広まったというもの。もう一つが、琉球絣の影響を強く伺える越後の麻絣(上布)が、すでに寛文年間(1660年頃)には織り始められていることから、琉球から越後に伝わった技術が、綿の普及に伴い、全国各地に広まっていったという説だ。

各産地で生産され始めた時代を見ると、時間を追って、西から東へ伝わったとは、必ずしも言えないために、どうやら越後伝播説の方が、的を得ているように思える。

 

今日御紹介する弓浜(米子)絣は、広瀬絣や倉吉絣と並ぶ、山陰を代表する絣の一つ。綿栽培が始まったのは、延宝年間(1670年頃)と早く、織の技術は、四国・高松の琴平神社へ参詣(金比羅参り)した人物が、伊予(絣)から持ち帰ったとも、備後(現在の広島県)から中国産地を越えてきたとも、伝えられている。

弓浜(ゆみがはま)とは、鳥取県米子市の西北、境港市にかけて広がる「弓浜半島」のこと。ここには、海流によって運ばれた砂が堆積した砂州が、幅4キロ・長さ18キロにわたって広がり、地図上だと、ヒゲか蔓が伸びたような形に見えている。

 

地元では、古くからこの半島のことを、「浜の目」と呼び、そのため弓浜絣にも「浜の目絣」の別名があった。この土地は砂地で、灌漑用の水路を確保することが難しかったことから、稲作には適さず、その代わりに綿の原料となる棉(きわた)が栽培された。年貢米の代用となる商品作物の綿は、この地域で暮らす人々の、生活の糧でもあった。

やはり織物が生産される地域では、原料が確保されやすいことが、大きな条件の一つであり、この浜の目絣も、例外ではない。しかも、ここで栽培された綿は上質であり、「伯州綿(はくしゅうめん)」として様々な地域から引き合いを受けていた。

 

いかにも、海に面した半島の町で織られた絵絣にふさわしい、海老と流水の模様。

弓浜絣の特徴は、種糸(たねいと)という、絣糸を括る時に用いる糸を使うこと。この糸を作るためには、まず最初に、蠟を引いた紙に模様を彫って下絵にする。そこに絵図台(種糸台とも呼ぶ)と言う台を用意して、手紡ぎ綿糸を張り渡し、その下に下絵を置く。そこで墨を含ませた筆を使い、絵の模様を糸にすり込んで写し取る。この糸が、絵絣模様の基礎・種糸となるのだ。

これを、整経(一定の長さと本数に分けて巻き取る作業)した糸の束と合わせて長く張り渡し、種糸の墨で描かれた部分を、手で括る。以前この手くびりには、麻が使われていたようだが、現在はビニールで代用されることが多くなった。

この糸を、藍の甕に浸して染めた後、製織に取り掛かる。弓浜の糸は、経糸を藍ひといろで染め、緯糸だけで絣と絵模様を織り出す。緯糸だけを括ることで、曲線の絣模様が生まれるのである。

 

絣模様として最もポピュラーな、麻の葉模様。江戸小紋や長襦袢にも、よく使われる。

弓浜絣の絵絣図案のほとんどは、農民の日常生活に密着した、身近なモノをモチーフにしている。婚礼布団用には、鶴や亀などおめでたい模様を使い、キモノや帯地には、花鳥風月や有職文様を使う。中には、正月に使う玩具や、自分の家に置いてある道具を描いたものも見受けられる。

江戸末期から大正期にかけてが、最も生産数が多く、年間十数万反にも及んでいた。特に、明治初年に作られた絵絣には、電信柱や傘の模様などもあり、当時庶民の目に新鮮に映った道具はどんなものでも、絣の模様に採用されていたことが判る。

どの模様も素朴であり、模様からは農民の暮らしが見て取れる。倹約した生活の中で、毎日着用する野良着でも、精一杯のお洒落を楽しもうとする。そんなささやかな心情を、一枚の木綿絵絣が、語っているように思える。

 

弓浜絣の全盛期は大正期までで、昭和に入ると、急速に生産数が少なくなり、戦後はほとんど見かけなくなった。技術を受け継ぐ者もなく、いつ消えても不思議ではない状態が、何年も続いた。そんな中で、島田太平・悦子さん夫妻(工房ゆみはま)や、村上勝芳・一枝さん夫妻(村上絣織物)など、僅かな人たちが弓浜絣の伝統を受け継ぎ、モノ作りを現代まで繋いできた。

その過程で、1975(昭和50)年には、国の伝統的工芸品として指定を受け、弓浜絣協同組合が生まれる。現在、組合員として加盟している織屋は6軒。組合が運営する「弓浜かすり伝承館」は境港市にあり、絣の歴史や技法を今に伝えている。また、ここでは絣を使った小物なども売られており、市の観光スポットにもなっている。

 

品物に付けられた、弓浜絣協同組合の証紙と伝産マーク。

さすがに、現在のキモノや帯の生産数は限られたものだが、ポーチや財布、コースターなどの小物作りには、大変力を入れている。最近では、アシックス社製のスニーカー生地に採用され、話題を呼んだ。

2007(平成19)年からは、組合で研修生を募り、後継者育成にも力を注ぐ。採用された研修生は、弓浜かすり伝承館で、糸紡ぎ・藍染・手括り・製織と、ほぼ全ての工程を学ぶ。そして、デパートでの販売研修なども行なわれる。製造から販売まで、弓浜絣の全ての仕事を未来に受け継ぐことが出来るようにと、準備が整えられている。

戦後、一度は消えかかった弓浜絣。その経験を踏まえ、現代まで絣を繋いだ人たちの思いを、若い後継者達にしっかりと伝える。そんな努力が、今もなされている。

 

呉服専門店と言えども、木綿の絵絣を直接目にする機会は、大変少ない。それほど、稀少品となってしまったという証拠でもある。バイク呉服屋のつたない説明では、品物の全てを伝えることは難しいが、せめて画像から、織りなす素朴な模様に、郷愁を覚えて頂ければ思う。

次回はこの続きとして、四国・松山の伊予絣について、お話してみたい。

 

弓浜絣のふるさと、境港市は、大変遠いところです。飛行機を使えば、米子空港で降りて1時間ほどですが、新幹線だと、岡山で伯備線(はくびせん)の特急列車に乗り換え、さらに米子で境線に乗り継がなければなりません。東京からだと、約6時間は掛かります。

ですが、境港へと続くこのローカル線には、ユニークなイラスト列車が走っています。描かれているのは、ゲゲゲの鬼太郎にねずみ男、猫娘や目玉の親父。砂掛けババアやこなきジジイも登場しています。なぜ、鬼太郎かと言うと、作者の水木しげるさんの故郷が、ここ境港市だからなのです。

 

弓浜絣を生んだ弓浜半島は、「日本の渚百選」にも選ばれた美しい海と、青い砂に囲まれた風光明媚なところ。冬には、山陰の代表的な味覚の一つ、松葉カニも数多く水揚げされます。

今なら、最後に残った夜行特急寝台列車・サンライズ号も使えます。東京発は22時で、米子到着が朝の9時。夜汽車と弓浜絣と鬼太郎をセットにした、山陰へのノスタルジックな旅は如何ですか。

今日も、最後まで読んで頂き、ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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このブログに掲載されている品物は、全て、現在当店が扱っているものか、以前当店で扱ったものです。

松木 茂」プロフィール

呉服屋の仕事は時代に逆行している仕事だと思う。
利便性や効率や利潤優先を考えていたら本質を見失うことが多すぎるからだ。
手間をかけて作った品物をおすすめして、世代を越えて長く使って頂く。一点の品に20年も30年も関って、その都度手を入れて直して行く。これが基本なのだろう。
一人のお客様、一つの品物にゆっくり向き合いあわてず、丁寧に、時間をかけての「スローワーク」そんな毎日を少しずつ書いていこうと思っています。

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