バイク呉服屋の忙しい日々

今日の仕事から

型紙と染にこだわる浴衣を試してみる  長板中形・綿紅梅・奥州小紋

2017.08 01

それにしても、ここ数年の雨の降り方は異常だ。一時間に100ミリを越えるようなゲリラ豪雨や、狭い地域に長時間雨雲が居座り続ける線状降水帯は、河川の水の許容量をはるかに越えて、人々に甚大な被害をもたらす。

この夏の福岡・朝倉市や大分・日田市、秋田・大仙市の災害、昨年の岩手や北海道での台風被害、一昨年の広島豪雨。いずれも、これまでの気象の常識を超える、いわば「想定外」の雨によるものだ。温暖化による地球環境の変化は、我々が考える以上に深刻な事態と認識する必要があり、対策が急がれる。こんな災害は、日本のどこにでも起こりうる可能性があるからだ。

 

日本では、これまでに幾多の気象災害を経験してきたが、その中には、千人単位で死者・行方不明者を出した台風被害がある。1934(昭和9)年9月の室戸台風・1945(昭和20)年9月の枕崎台風・1959(昭和34)年9月の伊勢湾台風。この昭和の三大台風では、全て三千人以上の死者を出している。

特に、昭和34年9月26日に和歌山県潮岬に上陸した台風15号は、中心気圧920ヘクトパスカル(当時は、ミリバールという単位だった)、最大風速60メートルという猛烈な勢力。上陸後は、紀伊半島を縦断した後に、中央アルプスから日本海に抜ける経路を辿った。

この時、台風の進路の東側にあたった伊勢湾では、5mもの高潮が発生し、海水が次々と堤防を越えて浸水してしまう。現在と違い、当時の情報伝達は乏しかったために、住民達は逃げ遅れて、水に飲み込まれる事態が多発した。この台風での死者・行方不明者は5千人を越える。1995(平成7)年1月に、阪神・淡路大震災が発生するまで、戦後最大の自然災害であった。

 

小紋や浴衣を染める上では、欠かすことの出来ない型紙。この染型紙の故郷が、伊勢湾に面した伊勢・白子(しろこ)町である。名古屋から近鉄特急に乗り換えて40分。現在は鈴鹿(すずか)市の一部だが、型紙作りとこおなご漁で栄えてきた古い町である。

白子での型紙発祥に関わる史料は、確たるものはなく、幾つかの言い伝えがあるだけ。そんな中で、よく知られているものが、白子にある真言宗の寺・白子山観音寺にまつわる伝説である。この寺は、751(天平勝宝3)年、藤原不比等(藤原摂関家・北家の祖で、中臣鎌足の次男)により建立され、安産や子どもを守る神として信仰を集めていた。この寺には、子安観音という別名もある。

寺に残る伝説によると、ある時、僧の一人が、境内にある冬でも花を付ける不思議な桜・不断桜の虫食いの葉を見た。その時、この葉の形を紙に切り抜いて、行灯や障子の装飾にすることを思いつく。その後寺では、この切り紙細工を「富貴絵(ふきえ)」という土産物にして、寺の参拝者や伊勢神宮の参詣客などに売り出した。この模様を紙で切り抜いたものが、型紙の原点となったという訳である。観音寺では現在も、富貴絵を土産として売っているようだ。

白子の型紙作りは、江戸期になって、紀州藩が重要な藩の産業と位置づける。その結果、販売権を独占した型紙は、藩に莫大な利益をもたらした。白子には、型紙の流通を担う問屋が軒を連ね、同時に、多くの職人たちが集まっていた。型紙を彫りぬく職人はもちろんのこと、型紙原紙である渋紙を加工する者や、型を彫る道具・彫刻刀を製造する者、さらには型紙補強のための「糸入れ」に関わる者などである。工程別に職人が存在する伊勢型紙は、他の染織と同様、やはり分業であり、職人達の技を結集させたものと言えよう。

さて、また前置きがかなり長くなってしまったが、今年も、型紙を使い、染に工夫を凝らした上質な浴衣を、何点か御紹介しよう。

 

(綿絽 長板中形小紋 竜田川模様・新粋染)

中形の染技法については、これまで何回か御紹介してきたので、詳しい説明は省くが、生地の両面に糊を置いて防染し、模様付けするもの。型付け工程の際に、生地を長い板に貼り付けるため、長板の名前が付いた。この板は、長さ6m以上、厚さ約2cmの樅(もみ)材を使う。

生地をのせる前に、予め、板はまっ平らな状態にしておく。板面が整っていなければ、均等に糊を置くことが出来ず、染め上がりにムラが出るからだ。また、板の上には、薄く糊を引いておくが、生地を置く前には刷毛で水気を与えて、糊を戻す。

生地を板に貼る時、何よりも大切なことは、シワが出ないようにすること。そのため、地張木という小さな木で幅を整えながら、慎重に生地を板に密着させていく。それこそ、生地がピーンとなるように、貼っておかなければならない。

模様の中に残る、「形の継ぎ目」の痕跡。

生地を板に置き、型付けの作業に入るが、この仕事でもっとも難しいのは、型紙の継ぎ目と、表裏の模様をいかにピタリと合わせるかというところに尽きる。型紙がすこしでもずれてくると、模様の表情に不具合が出てしまう。だから職人は、継ぎ目部分には特に神経を集中して、仕事にあたる。

だが、完璧を期した仕事でも、反物から継ぎ目の跡と推測される部分が見て取れる場合がある。上の画像でも、一番下の楓模様の下に、横に白く抜けた筋があることが判ると思う。ここが、型紙と型紙を繋いだ跡である。人の手だけを使うものは、すべて100%にはならない。けれども、これは失敗なのではなく、職人の努力の証なのだ。そして改めて、型付けという技術の難しさが理解出来るような気がする。

綿絽の透け感。流水に紅葉が流れ行く姿の竜田川文様が、いかにも涼しげ。

ちはやぶる 神代もきかず 竜田川 からくれなゐに 水くくるとは        (古今和歌集・在原業平)

生駒山を源流にして、奈良・斑鳩地方を流れる竜田川は、古くから紅葉の名所として知られ、多くの歌人が題材にしてきた。上に掲げた在原業平の歌は、小倉百人一首の中にあり、もっとも知られたものの一つ。

竜田川の川面に浮かぶ楓の紅色は、神代にも聞いたことのない美しさだと、平安きってのプレイボーイ・在原業平が詠んでいる。そんな訳で、いつしかこの流水に紅葉がながれゆくさまを、竜田川文様と呼ぶようになった。

竜田川の流れにリンクさせて、明鶸色・波文様の紗博多八寸帯を合わせてみた。

染料に本藍を使っている中形は、合わせる帯次第で、様々な表情に映る。シンプルな色合いの浴衣こそ、帯が楽しめる。その代表格の品物であろう。

この中形染は、明治末期から開発され、量産化の基となった注染との技法の差別化を図るために、本染中形と称されるようになった。また大正期になると、従来江戸だけで染められていたこの技法が、地方にも広がったため、やはり品物を差別化するために、産地・東京の名前を冠にした「東京本染中形」として市場に出るようになっていく。

現在、この江戸の技を頑なに受け継いで仕事をしている染場は、数えるほどしかない。型紙職人と型付け職人の技の全てが、一反の浴衣の中に詰まっている。この先、何とか残り続けて欲しい、貴重な染モノである。

 

(藍地 葵文様 綿紅梅・竺仙)

先月御紹介した絹紅梅と同様、織生地の表面に畝があり、それが連続することでワッフル状の生地となる。絹紅梅は、畝の段差を、絹と綿という違う素材を織り込むことで付けていたが、綿紅梅の場合には、太さの異なる綿糸を使うことで、凹凸を出す。

絹紅梅ほどの軽さは無いとしても、コーマや紬、綿絽などの浴衣生地に比べれば、ふわりと軽い。また、勾配がある生地の表面に触れると、肌にサラリとした質感を残す。

綿紅梅の透け感。唐草のように、蔓状にデザインした葵。梅雨明けから、鮮やかなピンクの花を付ける立葵は、やはり夏を感じさせる植物の一つ。

葵と言えば、水戸黄門の印籠でお馴染みのように、徳川家の家紋(三つ葵)として知られている。江戸期には、やはり将軍様のシンボル・葵模様を使うことが憚られ、キモノ意匠の中に見られるようになったのは、明治以後のことだ。

竺仙では、この綿紅梅を引染めという方法で染めている。これは、中形と同じように、型紙を板に貼り付けて、糊を置く(地入れと呼ぶ)。これを乾燥させた後に、刷毛で染料を引き、蒸しと水洗いの工程を経て仕上げる。染料は、化学染料を使う。

綿紅梅は、藍を基調にしたものがほとんどだが、中に僅かな色が配されることも多い。この葵模様の品物にも、黒と茶で表現されている部分が見える。これが、シンプルな図案の中のアクセントにもなっている。絹紅梅に使われている図案は、連続した細かい文様が多く江戸小紋的だが、綿紅梅はどちらかと言えば浴衣に近く、比較的大きな図案のものが多い。

 

(綿紬 桔梗に秋草文様 奥州小紋・竺仙)

生成色に先染めした糸を織った綿紬地。通常の綿紬浴衣だと、コーマや綿絽浴衣などと同様に、注染で染められていくが、この奥州小紋は、綿紅梅と同じ引き染によるもの。

模様は、数ある浴衣図案の中でも、一番「竺仙らしさ」を感じる桔梗をメインに使っている。藍に染め抜かれた大桔梗の中に、菊と萩を配し、そこにスッと立ち上がる小桔梗の花をあしらう。地色も模様の雰囲気も、江戸の風情を感じさせる大人の浴衣である。

紬地だけに、ほとんど透けない。先ほどの葵・綿紅梅同様、藍の中に僅かに黒と茶が挿されている。この二つの色の組み合わせは、浴衣を粋に見せる効果があるように思う。

古典的な浴衣図案は幾つもあるが、その代表的なものが、この秋草文様であろう。この浴衣に使っている桔梗・菊・萩のほか、撫子、女郎花、薄、藤袴など「秋の七草」として知られている植物は、何種類かを組み合わせたり、散らしたりして、様々に意匠化されている。

また秋草は、浴衣ばかりではなく、帯やキモノの図案としても度々使われ、その着姿に季節感を醸し出す。旬を表現するには、またとない文様であり、だからこそ、古来から好んで使われてきたものなのである。

 

竜田川模様の小紋中形、葵模様の綿紅梅・桔梗と秋草模様の奥州小紋と、型紙を使い、きっちりと人の手で型付けされた品物を御紹介してきた。こうして見ると、使われている文様は古典的なものばかりである。やはり、技法にこだわった品物は、オーソドックスな文様がふさわしいと言えるのではないだろうか。

皆様も、もっとも浴衣らしいこんな江戸染めの品物を、ぜひ一度試して頂きたい。最後に、ご紹介した三点を並べてご覧頂こう。

 

伊勢白子は、型紙つくりだけでなく、古くから伊勢湾の中の物流拠点として開けていた港町でもありました。

それを裏付ける一つの出来事が、江戸中期の天明年間に起こります。1782(天明2)年12月、白子の廻船問屋・一味諫右衛門の船(神昌丸)が、紀州藩の囲米(備蓄米)を積んで、江戸に向けて白子の港を発ちます。この船の船頭の名前は、大黒屋光大夫(だいこくやこうだゆう)。

船は嵐に遭遇し、7ヶ月を経てたどり着いたのが、江戸どころか、千島列島よりさらに先の、アリューシャン列島の一つ・アムチトカ島。そこでロシア人と遭遇した光大夫は、彼らと共に国への帰還を志します。そして、ロシアへ辿り着くと、首都・サンクトペテルブルグに赴き、皇帝・エカチェリーナ2世に謁見。直接、日本への帰還を願い出たのです。

そして、ロシアの陸軍中尉・アダム=ラクスマンに付き添われて根室に帰還したのが、1792(寛政4)年のこと。白子の港を発ってから、実に10年の歳月が流れていました。17人の乗組員のうち、帰国出来たのは光大夫を含めて、僅か3人だけでした。

帰国後、光大夫の異国見聞録は、蘭学者・桂川甫周(かつらがわほしゅう)の手で、北槎聞略(ほくさぶんりゃく)という書に編纂されます。光大夫は図らずも、初めてロシアという北方の国を認識した日本人、そして初めて外国の脅威を意識した日本人となりましたが、苦難の中でも、日本人としての矜持を持ち続け、生き抜いた力は感嘆に値します。

 

白子は、人口4千人あまりの小さな港町ですが、文化と歴史に溢れた魅力ある町です。皆様も、ぜひ一度訪ねられると良いでしょう。

今日も、最後まで読んで頂き、ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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松木 茂」プロフィール

呉服屋の仕事は時代に逆行している仕事だと思う。
利便性や効率や利潤優先を考えていたら本質を見失うことが多すぎるからだ。
手間をかけて作った品物をおすすめして、世代を越えて長く使って頂く。一点の品に20年も30年も関って、その都度手を入れて直して行く。これが基本なのだろう。
一人のお客様、一つの品物にゆっくり向き合いあわてず、丁寧に、時間をかけての「スローワーク」そんな毎日を少しずつ書いていこうと思っています。

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