バイク呉服屋の忙しい日々

今日の仕事から

夏キモノに準ずる浴衣を試してみる  江戸小紋的な、絹紅梅

2017.07 14

恐れ入谷の鬼子母神。びっくり下谷の広徳寺。情け有馬の水天宮。何だ神田の大明神。

いずれも、江戸天明期に活躍した狂歌師・大田南畝(おおたなんぼ)の作とされる地口だ。読んで判るように、地口なるものは、駄洒落のような言葉遊びの一つである。恐れ入る=入谷とか、びっくりした=下谷など、あまり意味も無く、地名を引っ掛けて遊んでいるだけのもの。

南畝の地口で紹介された寺社仏閣は、いずれも江戸の下町にあって、庶民には良く知られたところばかりである。入谷の鬼子母神は、バイク呉服屋が、しみぬきや補正の仕事を依頼しているぬりやさんの仕事場のすぐ近くにある。鬼子母神を祀っている正式な寺名は、真源寺。江戸初期に開山された、法華宗・本門流の寺。

毎年、7月の6日から8日まで、この鬼子母神を中心とする言問通りで、朝顔祭りが開催される。この三日間は、朝顔を売る店が120軒も並び、店は早朝5時から開いている。通の人たちは、夜が明けると駆けつけ、お気に入りの一鉢を求めているようだ。

 

朝顔が日本にもたらされたのは、奈良期。これも遣唐使により、唐から運ばれたものの一つである。この植物は最初、牽牛子(けんごし)という名前で呼ばれており、後に阿佐加保という和名が付いた。この花の種子には、下剤としての作用があり、中国では漢方薬として珍重されていたもの。奈良の高松塚古墳の北方には、牽牛子という名前の付いた古墳があるが、このことから、すでに奈良時代には、古墳のある畝傍(うねび)地方一帯で、薬用朝顔の栽培が行われていたと考えられている。

この花が、観賞用として栽培され始めたのは、江戸期になってからだ。色鮮やかで清々しい花を付ける朝顔は、武士の間で大いにもてはやされ、花の大きさを競ったり、変わった色合いのものを育ててみたりと、この時代にかなり品種改良が進んだ。

明治初年、入谷に住んでいた多くの植木屋が、朝顔栽培に力を入れる。そして育てた花を沿道に並べると、これを鑑賞する人々が多く訪れるようになった。朝顔市が立ったのは、こんな理由だったらしい。大正年間に一旦途絶えたものが、戦後になって復活。今では、浅草のほおずき市と並ぶ、初夏の東京の風物詩となっている。

 

さて、今日はそんな初夏の風情を、粋な江戸姿で堪能出来るような、夏キモノに準ずる「江戸小紋的な型紙」を用いた品物を御紹介してみよう。浴衣より少しお洒落で、大人の着姿。そんな際立った姿を演出出来る、絹紅梅を見て頂くことにする。

 

(勿忘草色 菊撫子模様 絹紅梅・新粋染)

最近では、街着として広く着用されている浴衣だが、厳密ではないが、品物の材質や染め方により、僅かながらも格の違いがあり、それに従って使える場所も変わってくるよう思える。

 

浴衣の原点は、平安びとが入浴の時にまとった麻単衣・湯帷子(ゆかたびら)である。これが、時代を経るごとに、少しずつ用途が変化する。麻素材の湯帷子は、江戸期になって木綿に変わり、それは入浴時に使う布から、入浴後の湯上り着となっていく。

さらに湯上り着は、部屋着となり、そのまま寝間着として使うようになる。昭和30年代までは、浴衣を寝間着として使っている家庭が多かった。現在、ホテルや旅館で提供される浴衣は、そんな名残なのである。

そして時代が進むと、部屋着としての浴衣は、徐々に気軽な外出着としても使われるようになっていく。浴衣が、素材や技法に工夫を凝らしたものを作るようになったのも、その一因であろう。最初は、それこそ湯上りの夕涼みで使う散歩着だったものが、少し進んで、縁日や花火見物など、気取らない場所で着用されるようになっていく。

 

キモノが少し見直されるようになった昨今では、若い世代の方を中心に、浴衣を着用する機会が増えてきたようにも思うが、素材や柄行きによる使い分けの意識は、かなり薄れてきている。

それは、以前ではあまり見られなかった着方が試されていることでも、理解出来る。例えば、半巾帯に帯〆や帯揚を使ったり、素肌ではなく、下に襦袢を使い、衿を付けた着姿にしていることだ。これはどちらかと言えば、「夏のキモノ」としての着装の仕方である。また、中には、足袋を履いて下駄を使うなど、これまでの常識からすれば、驚くような姿も、たまに見受けられる。

自由な着回しをすることに対して、あまり批判的なことは言いたくないし、構わないこととは思うが、様々な浴衣を扱う店としては、お客様には少しこだわりを持って、使い分けをして欲しい気がする。素材や模様、作り方も多様な浴衣は、品物により雰囲気も違い、着心地も変わる。そして、夏キモノとして着用出来るものと、浴衣の域を出ないものとでは、少し違いがあるように思える。

これから御紹介する絹紅梅は、大枠では浴衣の範疇に入る品物だが、作り方、模様、風合いから考えれば、夏キモノとして考えるものかと思う。皆様には、普通の浴衣との違いを、画像からでも感じて頂ければと思う。

 

紅梅という織物については、これまでにも何回か説明してきているので、詳しいことは述べないが、太さの異なる糸を織り込むことで、格子状の凹凸を織面に表現したものである。画像で見ると、縦横に格子を構成する糸が太糸であることが判るが、この組織が、綿糸であり、他は絹糸が使われている。

製織した新粋染が反物に付けた、素材の割合。絹が52%・綿が48%。絹と綿が、ほぼ半々の割合で使われている。

新粋染の創業者・伊藤弥良は、縞型紙彫の第一人者・人間国宝の児玉博の従兄弟にあたる。ということから、やはり製造する浴衣は、注染と小紋中型だけに限られ、使う型紙には特別のこだわりを持つ。模様の雰囲気も、竺仙とは少し違う、独特な粋姿を感じさせるものや、この撫子菊のように、思い切ってモチーフを図案化したものが多い。同じ江戸染でも、染屋により個性があり、面白い。

地色は、薄水色で、勿忘草の花に近い柔らかい色。模様を見ると、花の中心は撫子で、花弁は菊。二つの秋花を融合した、斬新な図案である。これを反巾いっぱいに連続して重ねているため、独特な模様の見え方になっている。型紙の面白さが、そのまま柄の面白さに繋がっている品物。

絹紅梅は、通常のコーマや綿紬、綿絽と比べると、かなり軽い。それこそふわりと風になびくような着心地となる。同じ紅梅でも、糸の太さを変えて織り込んだ綿糸だけの綿紅梅と比較しても、違いは明らかだ。多くが、藍や紺、水系の地色で、挿し色のあるものは少ない。色はシンプルだが、型紙に凝る。そんな品物が多いのが特徴である。

図案の雰囲気からしても、気軽な浴衣と言うより、「夏キモノ」として使う方が、この品物にはふさわしい。だから、きちんと襦袢を着て衿を作り、帯は半巾よりも、名古屋帯を使う。もちろん、帯〆や帯揚の小物も必要だ。どんな帯を使うか、例を挙げよう。

(白地 変わり格子模様 紗八寸名古屋帯・西村織物)

浴衣に使う博多帯と言えば、オーソドックスな献上柄が多いが、これは格子の筋の太さを変えたモダンな紗帯。模様が密な撫子菊の絹紅梅だから、帯はすっきりと幾何学模様でまとめる。キモノの地色と、帯の縦縞に使っている少し蛍光的な水色とをリンクさせる。あくまで、爽やかな着姿に見せようとする試み。

 

ついでなので、あと二点ほど、個性的な絹紅梅を簡単にご紹介しておこう。

(白地 みじん鱗模様 絹紅梅・新粋染)

遠目からでは、小さな点のようにしか見えないが、細かい鱗の連続模様。この三角繋ぎの鱗文(三つ鱗)は、幾何学文の中でも独特な雰囲気を持つ。この文様の発祥は鎌倉期で、蛇の鱗に似ていることから、魔除けに繋がるものとされて、武具や鎧などに好んであしらわれてきた。この時代、絶大な権力を持っていた執権・北条氏の紋所も、三つ鱗紋である。

反物をかざしてみると、おぼろげに畳が映る、絹紅梅の透け感。

江戸小紋と同じように、型紙にほどこされている精緻な技が、そのまま染に反映されている。作り方も、雰囲気も、これは浴衣ではなく、夏キモノである。このみじん鱗は、男女兼用の品物なので、巾が1尺5分と広い。いかにも、通好みの品物であろう。

 

(白地 変わり縞模様 絹紅梅・新粋染)

縞の中に、様々な模様が入っている、少し不思議な柄行き。矢絣あり、花あり、提灯に似せたものも見える。どこかエスニック的な雰囲気も感じられる。先ほどのみじん鱗は、それほど着る人を選ばないだろうが、こちらはかなりクセがある。

模様に近接して写してみた。よく見ると縞の太さが違い、少しよろけている。また、小花や絣も不均一で、一つ一つの模様に表情がある。こんなところにも、人の手による型紙の面白さが、かい間見える。

このような模様は、反物で見た時と、キモノの形になった時では、印象が変わってくる。かなり個性的な図案なので、帯は少し難しい気がするが、あまり主張しすぎない無地系か、ワンポイントの太鼓柄などが、まとまりやすいように思う。帯の色は、芥子や臙脂、群青などがよく映るだろうか。

 

御紹介した三点の絹紅梅。こうして揃えて写してみると、全く雰囲気の違う品物。

いずれも「型紙」に凝り、小紋の面白さがよく表れている。コーマや綿絽、綿紬など、通常の「浴衣」にあしらわれている模様よりも、キモノ的であること。そこに両者の「格の違い」があるように思う。そしてまた、絹綿混紡の紅梅生地の風合いが、「浴衣とは別モノ」の着心地にも繋がっている。

普通の注染浴衣の価格は、竺仙でも新粋染でも、3~4万円。これからすると、絹紅梅は7万円台で、倍もする。「浴衣」と考えれば、大変贅沢な品物であるが、「夏キモノ」と考えると、リーズナブルに思えてくる。いずれにせよ、この独特の着心地を、皆様にはぜひ一度、試して頂きたいように思う。

なお、綿紅梅や小紋中型、竺仙の奥州小紋などは、後日稿を変えて御紹介する予定なので、少しお待ち頂きたい。

 

「びっくり下谷の広徳寺」とは、南畝が、この寺の庭の広さに驚いたからだそうな。江戸当時、加賀の前田家など、有力大名を檀家に抱えた臨済宗・大徳寺派の大寺院でしたが、関東大震災で焼失してしまい、現在は、練馬区・桜台に移転しています。

「情け有馬の水天宮」とは、もちろん安産の神様として名高い、日本橋水天宮のこと。呉服問屋が集まる人形町界隈にあり、私もよく前を通ります。この宮の本宮は、福岡県の久留米市にあり、2代目の久留米藩主・有馬忠頼によって1650(慶安3)年に創建されました。その後、1818(文政元)年になり、9代目藩主・有馬頼徳が、現在ある人形町の地に分社を建てます。

最初この社は、久留米藩の所有地に建てられていたので、一般の人がお参りすることは出来ませんでした。けれども、「安産の神様」との評判を聞きつけた江戸の人々は、社の外からも賽銭を投げ入れるようになります。それを見た有馬の殿様は、とうとう社を開放してしまいます。

そんな訳で「情け有馬の」とは、「有馬様のお情けにより、庶民でも水天宮を参拝できるようになった」と言う意味が込められているのです。地口一つからでも、当時の江戸町人の姿が何となく思い浮かびますね。皆様も、さりげなく絹紅梅を着て、夏の江戸下町散歩を楽しまれたら如何でしょうか。

 

今日も、最後まで読んで頂き、ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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このブログに掲載されている品物は、全て、現在当店が扱っているものか、以前当店で扱ったものです。

松木 茂」プロフィール

呉服屋の仕事は時代に逆行している仕事だと思う。
利便性や効率や利潤優先を考えていたら本質を見失うことが多すぎるからだ。
手間をかけて作った品物をおすすめして、世代を越えて長く使って頂く。一点の品に20年も30年も関って、その都度手を入れて直して行く。これが基本なのだろう。
一人のお客様、一つの品物にゆっくり向き合いあわてず、丁寧に、時間をかけての「スローワーク」そんな毎日を少しずつ書いていこうと思っています。

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