バイク呉服屋の忙しい日々

現代呉服屋事情

現代振袖考(後編) 振袖ビジネスがもたらす、和装を知る機会の喪失

2017.02 17

ニホンウナギ・クロマグロ・タンチョウ・イリオモテヤマネコ・ジュゴン・エゾヒグマ・オオワシ・・・。日本で絶滅の恐れがあるとして、「絶滅危惧種」に認定されている生物は、3000種以上。両生類の3割・哺乳類の2割・鳥類の1割がこれに当たる。

昔から日本人の食卓ではお馴染みのマグロやウナギも、将来口に入り難い食べ物になってしまうかもしれない。生息数が減った原因は、過剰な捕獲や生物自体の生息環境の変化によるものだ。ウナギなどは、天然モノはほとんど無く、稚魚であるシラスウナギを育てて、市場に送り出しているが、稚魚そのものが、獲れなくなっている。

 

小売店販売員・一般事務職・バスやタクシー運転手・レジ係・受付や秘書・通訳・教員・・・。これらの職種は、将来人から機械に取って替わられる職業と言われている。2013年に発表された、イギリス・オックスフォード大学のマイケル・オズボーン准教授の論文、「雇用の未来」では、コンピューター化により、将来人間が奪われる仕事を予測している。

すでにネット販売の広がりにより、販売員の仕事は奪われつつあり、昨今急ピッチに開発が進んでいる自動運転技術が、運転手という仕事を奪うことも、容易に想像出来る。これらの職業は、未来の「絶滅危惧職種」ということになろうか。

人工知能を駆使した機械や、コンピューターの進化は、人から仕事を奪う。それは、人と人との関わりを極端なまでに減らすことと、同義である。言葉やふるまいを通して、直接繋がっていた人間が、機械を介在にしなければ、繋がることが出来なくなる。そんな社会が到来するのだろう。

 

日本の民族衣装・呉服に関わる職人の仕事などは、とうの昔に絶滅しかかっている。そればかりか、扱う呉服専門店そのものも、すでに絶滅危惧職種と言えよう。

キモノや帯を作る職人の裾野は、広い。手描き友禅なら、下絵・糊置・彩色・地染・蒸し・箔置・刺繍・絞り・整理。帯なら、原糸加工(撚り・糸染め)・図案作成・配色・整経・綜絖・製織。きちんと作られる品物であればあるほど、人の手が掛かる。

作る職人ばかりではなく、加工することにも、人の手が必要だ。和裁士はもちろんのこと、湯のし職人・紋章上絵師・洗張りすじ消し職人・しみぬき補正士等々。きちんと着用する人の寸法に合わせて仕立て、きちんと長く使い続けようとすればするほど、人の手が掛かる。

 

手を掛けた品物を求める消費者が減り、それを扱う者達が、丁寧に加工する意識が薄らいで、長く使うことを念頭に置かなくなれば、否応なく職人の仕事は無くなる。そして、いつかは必ず、品物と職人が消える。この民族衣装に関わる職人の存在こそが、日本固有のキモノ文化の源であり、エンジンだ。職人を喪失することは、文化を喪失することと同義である。

千年続くこの文化を廃れさせたくないのはヤマヤマだが、現状はかなり厳しい。良識のある呉服の業界人たち、すなわち作り手や、売り手は、何とかこの流れを断ち切ろうとするが、困難を極めている。

 

どうすれば、職人の仕事を残せるか。それはまず、消費者一人一人にキモノという文化について理解して頂き、良質な品物を長く使うという意識を持って頂く以外には、あるまい。

けれども、業界を見渡せば、「消費者へ知識や智恵を伝える」ことを念頭において、仕事を進めている者は、ごく僅かに過ぎない。多くの者は、そんなことは「どこ吹く風」かのように、目先の利益しか追っていない。そうするしか、呉服という仕事で生き残る術は無いかの如く。

今日は、呉服に関わる者にとって最も大切な、「消費者に伝える」ということが何故出来ていないのかを、考えてみる。現代の「振袖ビジネス」を例にとり上げながら、論じてみたい。

 

(数年前に修復した、昭和初期の振袖と丸帯)

振袖というアイテムは、普段キモノに縁のない消費者にも、関心をもって頂ける品物かと思う。どんな形であれ、成人にあたり、一度は振袖に手を通す方が、かなり多いことは事実だ。今は、親世代もキモノに関わる知識を持つ方は少なく、いきなり振袖云々と言われても、戸惑うことばかりであろう。

そんな世間の現状に合わせるかのような、「振袖ビジネス」が呉服業界を席巻している。これは消費者が何も判らなくても、振袖を選んで着用し、式に臨めるように、セッティングされている商いの方法だ。いわば、「流れ作業」のような店側の仕掛けになっている。

このシステムは、消費者が困らないように振袖を着用出来るということに限定すれば、大変便利なもので、その利便性だけが追求されている。だが、裏を返せば、「伝える」という意識が欠如している。伝えなければ、消費者は何も知らずに通り過ぎてしまい、ただ「着用したこと」が残るだけとなる。

先ほど、すでに呉服専門店は絶滅危惧職種になっていると書いたが、振袖ビジネスを進める呉服屋=いわゆる振袖屋や、貸衣装・レンタル屋は、将来残ることが出来るのではないか。むしろ、品物の質を問わない業者だからこそ、商いを続けることが出来るという、皮肉なことになるだろう。それは、「職人の手による品物」や「職人の手による仕立・手直し」を必要としないからである。

 

娘を持つ家庭には、高校を卒業する頃から、山のように振袖のパンフレットが送り付けられてくる。我が家などは、年の離れていない娘が三人もいたことから、呆れるほど振袖屋さんからご案内を頂いた。

中には、執拗に電話をかけてくる店が何軒かあった。もちろん、相手の店は、うちが呉服屋とは知らずにかけてくるのだが、どうも勧誘のマニュアルがあるらしく、押しなべて同じような売り込み方をする。また、専門のオペレーターを雇っている店もあるようだが、基本的にはキモノの知識をほとんど持っていない。そんな訳のわからぬ店の者に対して、自分から、呉服屋と名乗る必要もなく、適当にお断りをしていたのだが、まあしつこいまでの営業の熱心さだけは、ほとほと恐れ入った。

 

パンフレットを覗けば、ほとんどの振袖はインクジェットであり、捺染の型モノが少し混じる程度。型糸目で手挿しの品物は無く、無論上質な手描き友禅などあるはずもない。量産品だからこそ、パンフレットに掲載出来る訳だが、キモノに馴染みがなく、質の良し悪しに疎い消費者には、それがわからない。

もっとも業者側は、モデルが着用している振袖のイメージだけを、消費者にアピール出来れば良いので、質云々は最初から重視していない。そしてこの「イメージ」こそが、キモノに不慣れな消費者が、モノ選びをする最大の拠り所になっているのだ。

「どのように作られているか」という面倒な説明は、スムーズに振袖を買ってもらうためには、不必要であり、もとより品物そのものが、職人の手が全く掛かっていないのだから、説明不能である。普通に考えれば、品物の質と価格は、見合うものでなければいけないのだが、業者側も求める消費者も、商いの肝であるこのことに、全く目が向けられていない。

 

しかも、この振袖商法には、消費者に質や価格を理解出来難いしくみが、随所に散りばめられている。

例えば、ほとんどの場合、キモノ・帯・小物、そして仕立代までを含む、いわゆる「セット価格」で販売されているが、これでは一体、何がいくらになっているのか、さっぱりわからない。

どこの業者も、価格設定は、15万~55万くらいまでで、価格によって選べる品物も少し異なってくる。だがそこでは、一点一点の品物の情報など、深く伝えられてはいない。本当の価格は判り難いのだが、知識に乏しい消費者にとって、最初に「全て揃っていくら式」の金額提示があるため、それが「判り易い価格」と錯覚してしまうのだ。

また、買取でもレンタルでも可とする販売方法を取る店も多い。振袖が、成人式一日限りのためとすれば、レンタルは効率的であり、消費者の利便性に添うしくみである。レンタル価格は、買い取り価格の半分ほどに設定されている所が多いが、元々の価格が不透明なのだから、レンタル価格が適正なものか否かも、不透明になる。

そして、極め付きは、品物以外のサービスである。着付けや写真の無料サービス、そして手入れが無料なこと、また袴レンタル無料などというのもある。徹底的に、消費者の手を煩わせない、いわば「痒い所に手が届く」サービスと言える。

 

私は、このような商いの価格が適正であるか否かを論じることはしない。ただ、参考価格として、浅草や京都で、訪日外国人や観光客向けにキモノをレンタルしている業者の価格を提示しておく。この価格はいずれも、小物や着付けまで全て含めた価格である。

化繊の小紋と名古屋帯だと、3000~7000円(高くなると、正絹のモノになる)。化繊の振袖一式だと、15000円ほどで、正絹だと2万円台になる。多くが、インクジェットモノだが、型捺染のモノもある。

 

(昭和50年代に製作された、様々な絞りの技を駆使した振袖)

多くの女性にとって、振袖というアイテムは、和装の入り口で出会う品物だ。つまり、和装について理解するには、「またとない機会」である。だが先に述べたような現状を見れば、品物の本質を知ることも無く、ただ着用したことだけで終わってしまうことが多い。

無論、「キモノを着るのは、振袖だけ」と決めている方もおられよう。それはそれで良いと思う。けれども、何もわからないまま済んでしまえば、以後和装に関心を持つことは、少なくなるのではないか。

 

何も私は、「手の掛かった良質な品物以外は認めない」などと言っている訳ではない。振袖の着用は、若い人が和装に触れる数少ない機会にも関わらず、知識を深めることを逸している現状が、残念でならないだけだ。

うちには、母親の使った品物・ママ振袖を直す仕事を多く請け負うが、娘さんには、どのような品物でどこを直すのか、説明させて頂く。また、使う小物の色合わせなども、具体的に提案しながら、選んで頂く。若い方には難しいことと思うが、和装を理解して頂くためには、必要なことである。自分が着用する品物について、「よくわからないけれども、関心を持つこと」が、肝心かと思う。

どのように作られているかは、質を理解することに繋がり、どのように直すかは、手入れの重要性や、使い回す方法を知ることに繋がる。これだけでも、知っているのと知らないのでは、和装への意識に大きな違いが生まれる。これが将来、キモノへの関心度に明らかな差となって表れてくると思う。

 

消費者に手を煩わせない商いは、その場限りとする方たちには、大変便利な方策である。けれどもそれは、後々、和装を馴染みの無いものにしかねない側面がある。そして、質を理解しないことは、将来、消費者の目を見誤らせることにも繋がりかねない。それは「適正な価格」を見誤ることにもなってくる。

いくら判り難くても、品物の生まれ方や使い方を伝えることなく、和装の良さを消費者に理解して頂くことは無理である。これが出来て初めて、上質な品物を提案し、求めて頂くことが可能になる。そして、良い品物ほど長く使えることを知り、きちんとしたメンテナンスが必要なことも、わかって頂ける。それは、職人達の仕事を残すことにも繋がってくる。

つまりは、若い方への知識の伝達こそが、日本固有の服飾・和装を残すためには、欠かせないのではないか。この役割を担うのは、消費者と接する我々小売屋をおいて他にはいない。

未来に残るモノが、インクジェットの品物だけになり、仕立は海外縫製で、その上職人が枯渇して手直しも出来ないとなれば、それはもう文化では無くなる。

こんなバイク呉服屋の危惧が、杞憂に終われば良いのだが・・・。

 

消え行く仕事では、人の手に代わるモノが存在します。これは、ほとんどが、使う人間の利便性や効率を最優先して作られたモノと言えましょう。機械の仕事なので、当然感情は混じらず、ただ組み込まれた指令に応じて動くだけです。

機械が苦手な仕事は、人の感情を慮る必要がある職業。それは、現在人手不足になっている仕事と重なります。人生の出発点である保育と、ゴールにあたる介護は、人間一人一人に違いがあり、通り一遍のマニュアルは通用しない、一番「人間くさい」仕事の現場でありましょう。

ロボットやコンピューターに席巻され、どんどん人と関わることが無くなる社会。その中において、人と人とが関わる仕事こそが、最も尊重されるべきと考えますが、待遇は決して恵まれてはいません。

これでは、生活がどんなに便利になっても、豊かな社会とは言えませんね。この国の未来への不安は、こんなところにあるのではないでしょうか。

今日も、最後まで読んで頂き、ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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このブログに掲載されている品物は、全て、現在当店が扱っているものか、以前当店で扱ったものです。

松木 茂」プロフィール

呉服屋の仕事は時代に逆行している仕事だと思う。
利便性や効率や利潤優先を考えていたら本質を見失うことが多すぎるからだ。
手間をかけて作った品物をおすすめして、世代を越えて長く使って頂く。一点の品に20年も30年も関って、その都度手を入れて直して行く。これが基本なのだろう。
一人のお客様、一つの品物にゆっくり向き合いあわてず、丁寧に、時間をかけての「スローワーク」そんな毎日を少しずつ書いていこうと思っています。

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