バイク呉服屋の忙しい日々

にっぽんの色と文様

龍村の帯文様で見る正倉院(1) 天平鏡花錦

2017.02 22

二十四節気の雨水(うすい)を過ぎると、少しだけ春の足音が聞こえてくる。先週の金曜日には、東京で20℃を記録し、各地で春一番が吹いた。この風は毎年、雪から雨に変わる・雨水の頃にやって来る。この先は、寒い日が三日続くと、暖かい日が四日訪れるという、三寒四温をくり返しながら、春に近づいていく。

誰もが、柔らかな春の陽射しを待ち望むが、厄介なことも始まる。くしゃみが止まらなくなり、鼻水が溢れ、目が痒くなる。今や、日本人の4人に1人が罹っているアレルギー病・花粉症である。

主な原因は、スギとヒノキの花粉。これが風に舞って森から街へ飛散し、人々を悩ませる。スギ花粉は、早いところでは2月から、少し遅れてヒノキが来襲し、ゴールデンウィークの前あたりまで続く。

 

現代では、何とも迷惑に感じるスギやヒノキだが、古来より優れた建材として、使い続けられてきた。すでに弥生期の3世紀頃には、ヒノキ材を使った建物が現れ、飛鳥期以後の重要な寺社建築には、欠かせない木材となった。強度があって加工が容易なヒノキは、千年以上も持つ。世界最古の建造物・法隆寺西院伽藍・五重塔が、それを証明している。

飛鳥期以来、大規模な寺院や役所には、大切な文物や税として納められた米などを保管しておく蔵・正倉が置かれた。現存している東大寺・正倉院は、中でも最も規模の大きい保管庫であった。正確な創建時期はわかっていないが、聖武天皇の后・光明皇后が、天皇遺愛の品を東大寺・盧遮那仏(大仏)に献上した756(天平勝宝3)年頃とされている。

 

1300年の時を越えて、現代に伝わる天平の品々。考えてみれば、よくぞ残っていたものだが、その理由の一つには、先に挙げたヒノキ材を使って建造された建物の構造にある。

ご存知の通り、正倉院は高床式の校倉(あぜくら)造である。高床式は、三内丸山遺跡にも見られるように、縄文期から使われていた古い様式。地面から床を上げることで、温度や湿度が調節出来、「ネズミ返し」を付けて、害虫の侵入を防ぐ。

そして、ヒノキ材そのものの特性も、十分生かされている。ヒノキ校倉は、雨が降ると膨張して、組み込んだ木がピッタリと重なり、乾燥すると収縮して木の間に隙間が出来て、湿気を取り込む。つまり、湿度を一定に保つ役割を果たしていたのだ。

収納品を守っていたのは、これだけではない。倉の中の宝物は、唐櫃(からひつ・かろうと)と呼ぶ、スギ材で作られた蓋付きの足付き箱に入れられていた。外気に触れずに保管されていたために、湿気や害虫による被害を受けることなく、良い状態を保つことが出来たのである。

 

ヒノキとスギに守られてきた、天平のいにしえを今に伝える正倉院の宝物。その中にある、一つ一つの収納品に表現されている文様は、息を呑むほど美しい。

この正倉院の裂を研究し、復元に取り組んだのが龍村平蔵である。先頃、「取引先散歩」の稿で、平蔵の歩んだ道について少しお話したが、現在も製作され続けている帯には、数えきれないほどの正倉院の文様が再現されている。

そこで、これまで当店が扱った帯を使い、改めて龍村の文様を皆様にご覧頂こう。なおこの稿は、特徴的な模様の龍村帯が、店に里帰りしてきた時などの機会に応じて書くため、不定期になることをお許し願いたい。

 

(黒地 天平鏡花錦文様  沼津市 O様所有)

今まで、このブログの中で紹介した品物の中で、唐花や唐草をモチーフにしたものが、飛び抜けて多い。それは、バイク呉服屋が、何よりもこの文様に惹きつけられている証拠と言えよう。

正倉院を代表する花・唐花は多種多様にアレンジされ、宝物の文様の中に表現されていて、その煌びやかで美しい姿は、天平という時代の持つ華やかさの象徴でもある。モチーフは、空想的な植物文様の唐花・唐草ばかりでなく、菱や格子、連珠などの幾何学文や、孔雀・鸚鵡・鴛鴦・鹿・羊などの動物文、さらには鳳凰や麒麟、花喰鳥など、実在しない動物文様も登場してくる。

これら様々な素材を、自由かつ複雑に配置し、一つの洗練されたデザインとする。その組み合わせ方は、多彩であるが、文様を見ていくと、一定の法則があるようにも見受けられる。今日は、そんな特徴を考えながら、ご紹介する帯文様・天平鏡花錦(てんぴょうきょうかにしき)の話を進めていくことにしよう。

 

以前にもお話したが、唐花や唐草が文様として伝来したのは、6世紀・飛鳥期。これは、仏教の伝来(538年)に伴い、仏像や建造物に表現された文様・仏教美術がもたらされたことが、始まりとなる。

ご存知の通り、インド発祥の仏教は、中央アジアから中国を経て、さらに朝鮮半島から、日本へ伝わった。そのため、仏教美術というものが、様々な国を通過するたびに、その土地に根付いていた特徴的な文様を組み込んだことは、容易に想像出来る。文様が日本にやって来た時には、すでにインドや西アジア、中国など、異文化のエッセンスが融合されていたのだ。

 

飛鳥期における唐草文の代表的なモチーフは、忍冬(スイカズラ)で、パルメット文様と呼ばれているもの。この時代、最も仏教に帰依した聖徳太子と推古天皇が建てた法隆寺には、至る所にこの忍冬文様が使われている。

現在国宝になっている、夢殿・木造観世音菩薩像や金堂・銅造釈迦三尊像の光背(こうはい・仏像から放たれる光を表現したもの)や、仏堂のミニチュア版とも言える玉虫厨子(たまむしのずし)などに、沢山のスイカズラの姿がある。

この文様の発祥は、遠くギリシャ・オリエントであるが、忍冬にも様々な形式が見られる。例えば、玉虫厨子にあしらわれたものだけでも、6,7種類の違うスイカズラが見える。日本ばかりではなく、仏教美術が通過してきた地域、中国や朝鮮半島、中央アジアや西アジア各地にもこの文様が残されており、仏教とともに文様が伝来してきたことが改めて証明されている。

(忍冬文様の袋帯・梅垣織物)

飛鳥期にも遣隋使を派遣して、大陸の文化を吸収してはきたが、天平期の遣唐使は、前の時代とは比較にならないほど交流は密となり、大きく影響を受けた。唐という国そのものが、中央アジアから朝鮮半島までを支配する大国であり、東西文化の接点ともなっていたことから、飛躍的に文様も流入し、一気に花開いたのである。

肝心な今日の文様に入る前に、また話が長くなってしまった。どうしても、先に時代背景を説明しないと、スムーズに話が繋がっていかない。まだるこしくなってしまうことを、お許し頂きたい。

 

龍村が織り出す数々の正倉院文様を調べていくと、必ずと言ってよいほどモチーフとした裂に行き当たる。どの宝物に基づいて、図案が作成されたか類推できるということは、それだけ実際の文様が忠実に再現されているということに他ならない。

この天平鏡花文も、その例に洩れない。「鏡花」と名付けていることから、どうやら鏡に関わる宝物文様と想像できるが、果たしてどうであろうか。

 

(南倉収納品 銀平脱八稜形鏡箱・1号 デザイン・奈良女子大教授・藤野千代氏)

(南倉収納品 銀平脱鏡箱 2号 デザイン・奈良女子大教授・藤野千代氏)

正倉院・南倉に収納されている二点の鏡箱に描かれた文様。平脱とは、金・銀・錫などの薄板を文様型に切り取って漆面に貼りつけ、そこに漆を塗りこんだ後に、文様部分の膜を削ぎとる技法。これは、漆器の装飾方法の一つで、天平期に唐から伝わってきた。

中国では、これを平脱(へいだつ)と呼ぶが、日本では平文(ひょうもん)と呼んでいる。この鏡箱は、銀平脱なので、銀の薄板を使ったことになる。

 

二点の鏡箱の文様を見ると、いずれも八弁の大唐花で円を繋ぎ、真ん中に鳥を配している。だが良く見ると、唐花のデザインと、鳥の種類(1号は孔雀・2号は花喰鳥)が異なっている。

今日の帯・天平鏡花文の文様と比較してみよう。すると、下の鏡箱・2号の図案と、まさに瓜二つではないか。唐花のデザインといい、鳥の姿といい、ほぼ忠実に「銀平脱鏡箱」の文様が再現されている。龍村が自ら「鏡花文」と名付けた裏付けは、これだ。

実際の鏡箱には、主模様である花喰鳥を囲む八弁の大唐花が、同じ間隔で並び、その隙間を菱型に縁取られた唐花文が埋めている(上の画像)。この帯文様は、箱文様の主模様だけを切り取ったものと判る。

 

飛鳥期の忍冬文に代表される唐花は、天平期に入ると進化を遂げ、より豪華で流麗な文様となって現れる。これが、「宝相華(ほっそうげ)」である。

唐花は空想の花だが、モチーフとなっている植物は数多い。飛鳥期からの忍冬はもちろん、牡丹・蓮・芍薬・葡萄などを基にして、複雑にデザイン化し、一つの文様に仕上げている。宝相華という文様のイメージは、宝飾品のデザインのように、煌びやかで端麗な姿であり、フォーマルな帯の図案として、大変相応しいものと言えるだろう。

花をくわえた鳥・花喰鳥は、天平を代表する空想鳥。

唐花を拡大したところ。花はナツメヤシで、葉は葡萄のようにも見えるが、モチーフは判然としない。空想の花は、出所がわからないほどデザイン化されているが、それがまた良い。

正倉院の文様には、多種多様な素材が使われていることは、先に述べたが、図案の配置にも、幾つかの特徴が見られる。例えば、動物や植物などを左右あるいは上下対称に置いて、シンメトリーの美しさを表現するものや、一つの花文や鳥文を中心に置き、そこから放射状に宝相華や唐花をあしらうもの、さらに、文様を環状に配置し、図案を一定方向に向かせるものなどがある。

いずれにせよ、使われる図案の形式は、モチーフを文様の中で最大限生かし、美しい装飾にすることを明確に意識しながら、選んでいる。こんな、天平のデザイナー達の洗練されたセンスには、驚くばかりである。

 

さて、龍村の帯で表現している正倉院の文様の話は、如何だっただろうか。今日ご紹介した品物で、その図案が、宝物の装飾文様をほぼ忠実に踏襲し、復元されたものだと、理解して頂けたと思う。

龍村平蔵が、正倉院裂の復元に成功したのが、1928(昭和3)年。すでに90年にわたり、その仕事は脈々と受け継がれており、今も新たな文様が、帯に再現されている。これまで、織り出されてきた文様の数は、一体どれくらいあるのだろうか。

私が扱ってきた龍村の帯は、その中のほんの僅かな一握りに過ぎないだろう。また、機会あるごとに、美しい天平デザインの話をしていくつもりである。

では最後にもう一度、合わせて使っているキモノ(クリーム地御所解文様・色留袖)と一緒に、帯の画像をご覧頂こう。

 

今や、春の国民病とも言われる花粉症ですが、バイク呉服屋には一向に罹る気配がありません。うちでは、家内や三人の娘達が揃って、アレルギー症状に苦しんでいるだけに、冷ややかな視線を感じます。

彼女達は、私が若い時に汚い部屋に住んで、大量に悪い菌を吸い込んだために免疫が出来たとか、怪しい食い物(野草やジビエ)を喰い込んだことで、異様に抵抗力が付いているとか、訳のわからない理屈で詰ります。これではまるで、私が普通の人間ではないような言い方ですね。

でも私には、花粉症を発症しない最大の要因がわかっています。それは、長いことバイクで外を走り回っているうちに、自然と花粉に対する順応力が付いたことに、違いありません。バイク呉服屋が自然から受けた、「ささやかなご褒美」なのでしょうか。

今日も、最後まで読んで頂き、ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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このブログに掲載されている品物は、全て、現在当店が扱っているものか、以前当店で扱ったものです。

松木 茂」プロフィール

呉服屋の仕事は時代に逆行している仕事だと思う。
利便性や効率や利潤優先を考えていたら本質を見失うことが多すぎるからだ。
手間をかけて作った品物をおすすめして、世代を越えて長く使って頂く。一点の品に20年も30年も関って、その都度手を入れて直して行く。これが基本なのだろう。
一人のお客様、一つの品物にゆっくり向き合いあわてず、丁寧に、時間をかけての「スローワーク」そんな毎日を少しずつ書いていこうと思っています。

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