バイク呉服屋の忙しい日々

今日の仕事から

取引先散歩(9) 龍村美術織物 関東店  八重洲口・京橋(後編)

2017.02 07

「龍村さんの帯地の中には、それらの芸術品の特色を巧に捉へ得たが為に、織物本来の特色がより豊富な調和を得た、殆ど甚深微妙とも形容したい、恐るべき芸術的完成があった。私は何よりもこの芸術的完成の為に頭を下げざるを得なかったのである。」

これは、1919(大正8)年、龍村平蔵の個展・第一回織物美術展覧会に際し、作家・芥川龍之介が「龍村平蔵氏の芸術」と題して、東京日日新聞に寄せた一文である。

 

龍村平蔵は、織屋として再出発するにあたり、様々な人から支援を受けた。平蔵が特許を得た独自の技法が侵犯され、裁判に及んで苦境に陥ったことを、多くの人が知っていたからである。当時、発明権保護協会の総裁だった清浦圭吾は、以前から平蔵の技術を高く評価しており、支援に加わる。清浦圭吾とは、当時重臣として枢密院を牛耳っていた影の実力者であり、1924(大正13)年には、首相の座に就く人物である。

また、以前より、平蔵の織物を工芸品として世に広めようと奔走していた人物に、東京美術学校(現在の東京芸術大学)校長・正木直彦がいる。平蔵と正木を繋いだのは、高島屋の飯田新七。以前飯田は、平蔵の作品を正木に持参して、各方面に広げてもらうように依頼していたのだった。

そして、芥川龍之介とは、大彦・野口真造を通して親しくなっていた。後に、精緻な江戸友禅の製作者となる大彦も、この大正期には型染や捺染など、いわゆる量産品を作っていた。真造の父・彦兵衛も、清浦圭吾と親しかったため、その縁で平蔵との繋がりが生まれた。清浦は、野口功造・真造兄弟に、本格的な友禅の仕事を目指すことを進言し、平蔵はその意を受けて、言葉を伝える役割を果たす。大彦や大羊居が生まれた影には、龍村平蔵の力もあったのだ。

その野口真造と芥川龍之介が、江東尋常小学校付属幼稚園からの同級生で、親友だったのである。小学校の時には、一緒に冒険小説を作っていたようで、後年芥川が、「僕よりうまいかも知れず」などと紹介している。

 

最初に紹介した個展は、こうした支援者が発起人となって開催されたもので、期間中4000人もの来場者で賑わった。この会は、龍村平蔵の作品が、美術的な織物として世に知られていく大きな契機になったのである。

評価を得た平蔵が、次の仕事として考えたことは、古代裂の復元だった。それまでに研究していた古代裂の文様を、形として残していくことこそが、未来に繋がる重要な仕事であると。その平蔵の意志に答えて、支援者達が設立したのが「織寶会」である。目的は、上代・正倉院裂から近世・名物裂まで、貴重な織物を復元することだった。

今、龍村の品物の中に、数々の貴重な文様を見ることが出来るのは、このような歴史的経緯と、先人達の苦労や支援があったからである。皆様には、そんなことにも思いを巡らせながら、龍村の店の中をご覧頂きたい。

 

龍村美術織物 関東店・東京ショールームの店内。

ドアを開けてフロアに入ると、和雑貨からバッグ類、カーテン生地見本裂が整然とディスプレイされ、並んでいる。ここは、我々のような取引先の商談場所であるとともに、扱っている品物のショールームにもなっている。

龍村で、長いことうちの店を担当してくれたのが、Mさんというベテランだった。この人は、龍村生え抜き社員ではなく、元は北秀にいた方である。20年ほど前、北秀が破綻したあとに、龍村に移ってきた。

これまで度々ブログでお話してきたが、北秀という会社は、日本で一番上質な品物を作る染モノメーカーであった。手を尽くした手描き友禅を数多く作らせ、それを有力な専門店や老舗デパートに売った。北秀と取引があるということは、専門店としてある種のステイタスでもあったのだ。

高級問屋・北秀に在籍していた社員達は、破綻後業界内の様々な会社に再就職したが、Mさんは、最高の染メーカーから、最高の織メーカーに転じた人物だった。彼とは、北秀時代からの縁もあることから、龍村での窓口になって頂いた。

うちのような小さな店が扱える品物の数など、たかが知れているが、彼は、どんな小さな依頼でも引き受けてくれた。私にとっては、得難い人物だったが、昨年の初め、突然倒れて亡くなってしまった。個人的に縁のある人物だっただけに、惜しまれる。

 

ショーケースの中は、茶席に使う懐紙入や数奇屋袋、さらに使い勝手が良さそうなポーチ、宝石袋が並ぶ。ほとんどの模様が、光波帯や元妙帯にも使われている。

コースターや小銭入れ、ソーイングセットなどは、3000円以下であり、気軽に龍村の文様が楽しめる品物。訪日外国人の土産としても、センスの良いモノである。一人でも多くの方に、龍村の織を使って欲しいという願いが、和雑貨にこめられている。

礼装用のバッグが収納されているガラス棚。形や口金の装飾も様々。

龍村のバッグはどれも、キモノだけでなく、ドレスにも兼用できるような垢抜けたデザイン。正倉院裂に由来する文様が、モダンなこともあり、こんな使い方が出来る。

 

当店が、定番として常時置いているバッグと草履。手前から葡萄唐草文・五葉華文・菊もみピンク

うちと龍村の縁の始まりは、この草履とバッグ。昭和40年代の後半というから、すでに40年以上前になるが、私の父が、振袖用のバッグと草履を探すために、龍村を訪ねたところから、話が始まった。

その頃すでに、龍村といえば業界でも図抜けた存在であり、地方の小売店が簡単に取引出来るような会社ではなかった。今でもそうだが、龍村の取引先は、一部の老舗デパートと有力専門店以外は、問屋筋が多い。直接小売店に品物を卸すというのは、よほどのことでなければ難しかった。

 

先代が、何としてでも取引したいと頼み込むと、龍村はどんな店なのか調べにやって来た。扱っている品物を見て、自分の品物を置くに値する店か否かを、判断するためである。おそらく、店に飾ってあった北秀や紫紘の品物を見て、「ここなら大丈夫」と思ったのだろう。

父の話だと、最初に仕入れたものが、ピンクの菊もみと五葉華文の草履とバッグを、二組ずつ。これを、ひと月も経たないうちに売ってしまったという。おそらく当時は、甲府のような地方都市で、龍村の品物を見ることは稀であり、お客様の目を惹くものだったに違いない。しかも昭和40年代は、呉服屋にとって一番良い時代で、キモノの需要は今と比べ物にならないほど、沢山あった。

小物で信用を得た父は、帯を扱うようになる。その頃、うちで上質なフォーマルモノ(ほとんどが北秀から仕入れたもの)に合わせる帯は、ほとんどが紫紘の品物だった。紫紘とは異なるオリエンタルな龍村の文様は、扱う側にしても新鮮だったと思われる。

 

今でも、その頃うちで求めた龍村の品物に出会う。それは、母親の振袖を娘が使うために、店に戻ってきた時だ。帯も龍村製だが、草履やバッグも菊もみや五葉華文を使っていることが多い。

久しぶりに店にやってきた母親は、40年前と全く同じ品物を売っていることに驚く。定番商品と言うのは簡単だが、それだけ龍村の文様は、時代を超えた美しいデザインと認識されるからであろう。これこそ、スタンダードと言える品物である。

母親が使った龍村の草履は、鼻緒が傷んでいることが多い。そんな時は、送れば、同じ文様の鼻緒を新しくすげ替えて戻してくれる。40年前の草履に、こういう補修が出来るのは、龍村の製品以外には無い。この会社の素晴らしさは、こんな些細なことでも、十分感じることが出来る。質の良さとともに、アフターケアは万全であり、それは扱う店にも、消費者にも安心感を与える。

 

室町期の銀襴の裂・早雲寺文台裂をモチーフにしたクッション。配色違いの文様は、元妙帯にも使われている。注意してみると、イスに張っている生地も龍村製。

ずらりと並んだカーテン生地の見本。前の稿でもお話したが、龍村の仕事は多岐にわたっており、内装やインテリアなど、いわゆる室内装飾に関わる事業(インテリアファブリック)は、会社を支える大きな柱となっている。今も、上質な帯を作り続けることが出来るのも、このような新しい分野で収益を上げているからだろう。

正倉院でもっとも古い裂地の一つ・獅噛文長斑錦のカーテン。光波帯としてもお馴染みの文様だ。龍村のインテリア品を使うには、やはりそれなりの家の構えが必要かも知れない。それだけ「格調が高い」という意味である。

 

店内に飾ってある帯は、三本。格子模様のカジュアルモノと正倉院文様のフォーマルモノ。ショールームなので、帯そのものはあまり置かない。取引先相手の大きな展示会に、春秋に開かれる「斐成會(あやなすかい)」があるが、我々は毎年ここで、新しい龍村の織を見ることが出来る。

 

龍村の店舗紹介で、袋帯をご覧頂けないのも少し物足りない。そこで最後に、うちで扱った帯の中から、最近話題になったものをご覧頂こう。

(光吉装華文・銀地  渋谷区・S様所有)

昨年、レスリングでオリンピック三連覇を果たした伊調馨さんが、国民栄誉賞を受けたが、その際記念品として贈呈されたのが、龍村の「光吉装華文」袋帯。上の画像の帯が、同じ図案である。こちらは銀地だが、伊調さんに贈られたものは、金メダリストにちなんで「金地」になっている。(2014.10.19の稿で、この帯のコーディネートを紹介しているので、よろしければそちらもご覧頂きたい)

 

ベテランのMさんに代わって、現在うちを担当しているのは、Aさんという若い女性。まだ、入社1年半なので、龍村では新人ということになる。美術大でテキスタイルデザインを専攻していた彼女は、本当は「織手」になりたかったそうだ。

若手と言えども、やはりここに採用されるような人は、織の基礎を学んだ人である。龍村では、未来の会社を支える人の布石も、きちんと打ってある。今回、この稿を書くにあたり、店舗内の写真を撮らせて頂いたり、様々な話をお伺いし、快くご協力して頂いた。この場を借りて、感謝したい。

 

二回に分けて、龍村・関東店と、併設されている東京ショールームについて、ご紹介してきた。偉大な織物会社・龍村について、簡単に語ることなど到底難しく、断片的でまとまりのない話になってしまった。そこをお許し頂きたい。

龍村については、また帯を紹介する時々に、様々なことを伝えて行きたいと考えている。なお、東京ショールームへは、どなたでも入ることが出来るので、関心がある方は、ぜひ一度訪ねて欲しい。もちろん、展示してある雑貨類を求めることも出来る。ここでは、龍村の文様を一度に見ることが出来るので、楽しめるように思う。

東京ショールームの営業時間は、平日9:00~17:30 土日祭日は休業。なお、京都・御池柳馬場通にも、同様のショールームがあるので、関西の方は、そちらへ。

 

各々の呉服屋が、どのような店であるかというのは、その取引先を見ればすぐわかります。きちんとした質の品物を扱うためには、しっかりとしたモノ作りをするメーカー問屋とお付き合いが無ければ、始まりません。

それは、製造のリスクを背負わず、単純に品物を右から左へ流しているような、買継ぎ問屋と比べれば、商いに対する真剣さが全く違うように思われます。

 

龍村美術織物は、歴史に培われた自らが持つ織の技術を、多面的に生かしながら、現代の需要に応じた経営をする、稀有なメーカーです。初代平蔵が、血の滲むような努力の末に復元した数々の裂を、見事に今に繋げています。

この先、どんな時代が訪れても、日本という国がある限り、龍村の文様が色あせるようなことはないでしょう。それは、このデザインが日本文化の原点だからです。

今日も、最後まで読んで頂き、ありがとうございました。

 

 

 

 

 

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このブログに掲載されている品物は、全て、現在当店が扱っているものか、以前当店で扱ったものです。

松木 茂」プロフィール

呉服屋の仕事は時代に逆行している仕事だと思う。
利便性や効率や利潤優先を考えていたら本質を見失うことが多すぎるからだ。
手間をかけて作った品物をおすすめして、世代を越えて長く使って頂く。一点の品に20年も30年も関って、その都度手を入れて直して行く。これが基本なのだろう。
一人のお客様、一つの品物にゆっくり向き合いあわてず、丁寧に、時間をかけての「スローワーク」そんな毎日を少しずつ書いていこうと思っています。

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