バイク呉服屋の忙しい日々

ノスタルジア

山口伊太郎の織(2) 白砂名庭文(枯山水) 銀・プラチナ引き箔袋帯

2017.01 10

大学入試センター試験まで、あと一週間。受験生にとっては、今が、最後の追い込みであり、神経を尖らす日々が続いているように思う。

5年後の2021(平成33)年度からは、新しい試験制度(大学入学希望者学力評価テスト)が始まることになり、現行の選択式マークシート方式から、記述式を取り入れた方式に移行する。これは知識の暗記が中心の今の試験のあり方を、思考力や判断力、表現力などを重視するものに変える事が目的である。

長い間、知識偏重の入試を続けていたので、今回の大きな制度変更には、学生を受け入れる大学側にも、受験生の側にも、戸惑いがみられる。この先、円滑な制度移行が実行されるかどうかは、まだ不透明である。

 

バイク呉服屋の大学受験は、1978(昭和53)年。この年は、全国一斉試験(共通一次試験)が始まる前年のこと。まだ、国立大学が、旧帝大系を中心とする一期校と、その他の二期校とに分かれていた時代である。当時の高校の教師達は、次年度から始まる新制度への対応が難しいことから、「浪人すると大変だぞ」などと生徒を脅していた。

数学や理科が恐ろしいほど出来なかった私には、国立大学の受験はもともと不可能だったが、文系科目の国語・社会・英語の三科目だけの私大入試にも、ことごとく落ちた。これは、制度変更とは全く関わりがない、単なる高校時代の不勉強の結果である。

この時代、一浪は「ひとなみ」などと呼ばれていて、同級生の三分の一弱が浪人となった。当時の地方都市には、大学受験のための塾や予備校が無かったので、浪人でも東京へ出て行く者が多く、私もその一人だった。そしてその後、何とか大学に潜り込むことに成功したものの、ほとんど通うことなく卒業してしまって、今に至る。

 

一部の理系私大を除き、国語は入試の必須科目だが、その頃の受験生を悩ませたのが、現代文の設問に、難解な評論家の文章が取り上げられること。その代表格が、「文芸批評の神様」と呼ばれていた小林秀雄の評論文だった。

「思い出となれば、みんな美しく見えるとよく言うが、その意味をみんなが間違えている。僕等が過去を飾り勝ちなのではない。過去の方で余計な思いをさせないだけである。思い出が僕等を一種の動物であることから救うのだ。」

上の文章は、代表作の一つとされる「無常といふこと」から、抜粋したものだが、今改めて読んでもどうにも難解で、真意など読み取れるものではない。我々を悩ませた小林先生の文章も、その後しばらくは入試問題から遠ざかっていたのだが、4年前のセンター試験で久々に登場したところ、前年よりも国語の平均点を17点あまり下げて過去最低点を記録し、その難解な文章の実力を如何なく発揮した。

 

さて、かなり昔になるが、この小林秀雄が記した、「龍安寺の石庭」に関する文章を読んだ記憶がある。この庭は、良く知られているように、山水風景を石や砂で表現している「枯山水様式」。もちろん、読解力の乏しいバイク呉服屋には、彼が何を言いたいのかよくわからなかったが、この石庭の芸術性を高く評価し、この庭は「思索に富んだ奥深いもの」と述べていることだけは、微かに判った。

今日は、そんな気難しい芸術評論家さえ魅了した「枯山水」を帯の図案に用い、精緻な姿で織り込んだ、山口伊太郎翁の作品をご覧頂こう。飛び石と砂の上で描いた水の流れを、糸によって描く。一見、単純な図案のように見えるが、リアルに織り出すことはかなり難しい。

 

(白砂名庭文 引箔袋帯  山口伊太郎・紫紘  1990年 甲府市Y様所有)

枯山水は、石の回りに配した白い砂に、レーキという呼び名の大きな熊手のような道具で、文様を描いていく。この砂紋により、波立つ水面が表現される。このような、本当の水を全く使わない抽象的な山水庭園は、鎌倉期から室町期の禅寺に多く見受けられる。龍安寺の他には、大徳寺や妙心寺、西芳寺(苔寺)などが、良く知られているが、「白砂」が印象的な庭となると、京都ではやはり龍安寺と大徳寺が双璧であろう。

 

龍安寺は、京都市の北西部・衣笠に位置し、近くには仁和寺や等持院が、少し離れて北野天満宮がある。応仁の乱の際、東軍方の総帥だった細川勝元が開祖した、臨済宗の寺。室町中期の1450(宝徳2)年に創建された。

有名な石庭(正式名は方丈庭園)は、25mの幅の中に、大小15個の石が配置され、間には白い砂を敷き詰めて、そこに砂紋を描いている。それぞれの石の位置や砂紋が、どのような意図でこのような形になったのかは、定かではない。不思議なことは、庭のどの位置からも、全ての石が見渡せないように、設計されていることであろう。

 

帯の図案としては、極めてシンプルなものをどのように織り成すか。石庭の砂紋は、人の手でリアルに表現されたもの。砂なので、微妙な揺らぎや溝のブレがそのまま自然な表情となって表れる。

龍安寺では、この砂紋が消えかかると手を入れている。間隔は、約10日に一度ほどで、臨済宗の宗門大学・花園大学に通う若い僧が担っているらしい。熊手を使って描くその線は、一人一人微妙に違いがあり、個性が出ると言う。こんな繊細な砂紋を、帯の上で表現することは、複雑な文様を織り出すことより、よほど難しい。

 

山口伊太郎の織り出す帯は、模様の陰影を巧みに描いているものが多く、それによって、立体感のある独特な帯姿が形作られている。このような織姿を表現するには、引き箔糸は欠かせない存在だ。

様々な金属の箔を、模様に合わせて使うことにより、光の当たり方で変化する色の濃淡を、自在に表現することが出来る。また、滑るような帯地の質感も、引き箔糸を使った帯の特徴である。

枯山水を描いたこの帯を見ると、白と銀と鼠の三色だけの濃淡を使い、模様を表しているが、これに使われている糸は、銀とプラチナの引き箔糸である。以前、金引き箔の帯をご紹介した稿で、どのように箔糸が作られているかをお話したことがあったが、改めてその手間について、少し述べてみよう。

 

箔糸を簡単に説明すれば、和紙に接着剤を塗り、そこに金や銀、プラチナなどの金属材料を貼り付け、糸状に裁断して芯糸に巻いたものだが、工程ごとに専門の職人が存在し、その熟練した技術がなければ完成することは無い。

まず、和紙の原料として使われているものは、楮(こうぞ)や三椏(みつまた)といった、薄くて強度のあるもの。その原紙を裁断して、漆を二度塗る。最初に塗る漆・地漆(じうるし)は、箔の光沢をより以上に出すためのものであり、後でヘラを使って塗る漆・押漆(おしうるし)は、箔と原紙を繋ぐ接着剤の役割を担う。

漆塗りの後は、使う金属箔を貼る「箔押し」に移る。金や銀は、よく伸びる性質を持ち、特に金は一匁(およそ3.75g)で畳一枚分ほどに広がるという。使われるものは、薄く伸ばした箔を、正方形に切り分けたもの。職人は、一枚の箔の先端を竹のピンセットでつまみ、漆を引いた和紙の上に乗せ、押して貼る。

文章で書けば、簡単なように思えるが、箔は紙よりも薄く、息を吹きかけるだけで折れ曲がってしまうような薄さである。職人は、これを一瞬の間合いで引き上げ、貼っていく。熟練の技を持たなければ、とても出来ない芸当である。

箔は、一枚の原紙和紙の上に、20枚ほど押されていく。そこで今度は、裁断に移る。ここにも専門の職人がいる。切断には、機械に取り付けた刃を使うが、等間隔で刻まれる幅はわずか0.3mm。「そば切り」のような感じで、淡々と切られていくその技は、見る者を驚かせる。

 

箔には、このまま芯糸と一緒に撚り上げて使われるものと、さらに熱加工を加えて「焼き箔」にするものや、着色したり、薬剤を上塗りして模様を施す「模様箔」となるものがある。

いずれにせよ、引箔の仕事は、箔を貼る職人と、箔を切る職人が、二人一組で行っているものであり、それぞれの稀有な技術の裏づけが無ければ、生み出せるものではない。美しい織模様の影には、こんな職人達の力があることを、ぜひ知って欲しい。なお現在、箔の切断を専門に請け負うところは、二軒しかない。こんな西陣の見えざる所にも、危機がさし迫っている。

 

お太鼓の帯姿。揺らぎのある自然な砂紋と、石の陰影が見事に織り出されている。

模様を拡大した画像を見るとよく判るが、白い砂が自然に飛んでいるかのような、リアルな姿となって映っている。この紋図(模様の設計図)は、作者・山口伊太郎翁が、どのように枯山水を見せるのか、計算し尽くされたものであり、見事という他はない。

そして、素晴らしい図案だけでは、こんな帯姿となって完成はしない。先ほど述べたような、引き箔糸や、他の色糸を組み合わせることで生まれる「最終的織姿」を想像出来ていないと、製作出来ない。

伊太郎翁は、自分の感性で思い描く図案を「想像」し、それに一番相応しい織糸を職人に「創造」させる。作者と職人の二つの「そうぞう」がピタリと一致したからこそ、生まれた作品と言えよう。

 

「白砂名庭文」と、山口伊太郎直筆の箱書きが付いている。

枯山水という難しいテーマを、そのまま織で表現しようとする、その意識の高さというか、挑戦する魂のようなものを、この帯からは感じることが出来る。

伊太郎翁が亡くなって、今年で丁度10年が経つ。だが、残された作品を見ると、どの帯にも、翁のいのちが籠っているように思える。それとともに、そこには、同じ時代を生きた職人達の技が、隅々まで息づいている。

500年以上続く西陣の織物は、次の世代にも、何としても受け継いで欲しい、いや受け継いでいかなければいけないと、切に思う。

 

西陣の帯は、山口伊太郎翁のような優れたディレクターの意思の下、多くの職人達の技術が結集されて、生み出されたものです。長きにわたって培われたこの分業のシステムこそが、西陣の大きな特徴でもあります。

今日詳しくご紹介した、引き箔職人は、その中のほんの一部の方に過ぎません。図案の構成を考える「模様師」を始めとして、原料の準備工程にある「撚糸」や「糸染め・糸括り」「整経」に関わる職人、さらに、機の準備段階として、機に経糸を通す役割を担う「綜絖(そうこう)」職人や、実際の織を請け負う職人、そして仕事の最後を受け持つ「整理加工」にも職人がいて、まだまだ世の中に「知られざる職人達」は沢山います。

これからも折に触れて、そんな職人達の仕事を紹介していくつもりです。品物からは見えない隠れた技の素晴らしさを、ぜひ皆様に理解して頂きたく思っております。

今日も、最後まで読んで頂き、ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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このブログに掲載されている品物は、全て、現在当店が扱っているものか、以前当店で扱ったものです。

松木 茂」プロフィール

呉服屋の仕事は時代に逆行している仕事だと思う。
利便性や効率や利潤優先を考えていたら本質を見失うことが多すぎるからだ。
手間をかけて作った品物をおすすめして、世代を越えて長く使って頂く。一点の品に20年も30年も関って、その都度手を入れて直して行く。これが基本なのだろう。
一人のお客様、一つの品物にゆっくり向き合いあわてず、丁寧に、時間をかけての「スローワーク」そんな毎日を少しずつ書いていこうと思っています。

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