バイク呉服屋の忙しい日々

ノスタルジア

平成の加賀友禅(2) 星野高志・海賦模様 色留袖

2016.07 08

7月7日は、そうめんの日。1982(昭和57)年、全国乾麺協同組合連合会により、制定された。しかし、七夕とそうめんが、どのように繋がっているのか、意外と知られていない。

七夕は、ご存知の通り、天の川の西岸に位置する織女星(織姫)と、東側に位置する牽牛星(彦星)が、一年に一度だけ再会出来る日。二人は、鵲(カササギ)の翼に乗って、天の川を渡ってくる。

奈良期に中国・唐から伝わった伝説だが、この源流となっているものに、乞巧祭会(きこうさいえ)と呼ばれる、古い風習がある。これは、手先が器用になることを願い、7月7日に7本の針に糸を通すというもの。これが、織姫・彦星伝説を含みながら、中国・南北朝の時代あたりから年中行事となった。

 

織姫の仕事は、その名の通り機織であるが、古来日本では、織物をする女性のことを棚機女(たなばたつめ)と呼んでいた。彼女達には、織物を棚に上げて、神に祈りを捧げ、穢れを祓う「棚機(たなばた)」という風習があった。

これが、唐から伝来した七夕と重なり合い、現在のような形の行事になっていく。当初は、裁縫や手先仕事の上達を願って、梶の葉に和歌をしたため、星に祈りを捧げるというものであった。なお、「器用(きよう)」という言葉は、「乞巧(きこう)」が転化したという説があるようだ。

 

では、なぜ七夕にそうめんなのか、ということだが、すでに奈良期には、そうめんの原型が、宮中の七夕儀式の供物として使われていた記録がある。927(延長5)年に編纂された、律令の細則・延喜式にその記述が見える。

当時は、現在のような細い麺ではなく、索餅(さくべい)というもので、小麦粉や米粉に、塩を混ぜて作った太いものを、ちぎって使っていたらしい。

七夕の供物に使われた理由は、やはり索餅を白い糸に見立てたからであろう。先述したように、元々この行事は、機織の腕が上達することを願うものだったからだ。そして、小麦から作る餅を食べれば、無病息災が得られるとも、考えられようになっていった。

 

そうめんの由来には、七夕と深い縁がある。けれども、縁日に「素麺屋台」が出店した話は聞いたことがない。本来ならば、たこ焼きやかき氷ではなく、そうめんを売らなくてはいけないと思う。

七夕が過ぎると、梅雨明けは目の前となり、各地の海水浴場では一斉に「海開き」を迎える。今日ご紹介する作品は、そんな海辺の姿を写実的に描いた「海賦(かいふ)」模様の加賀友禅である。

 

(薄藤色 海賦模様・色留袖 星野高志  1990年代初め 甲府市・N様所有)

草花をモチーフにすることの多い加賀友禅だが、黒留袖や色留袖などの絵羽モノには、ある風景を切り取って、写実的に描いた作品がある。絵羽付けであることを生かし、上前から後身頃まで、模様をぐるりと繋げて一枚の絵のように見せている。今日ご紹介する作品は、キモノの裾模様全体に入江の風景を描いたものである。

 

作者・星野高志は、水野陽子の弟子。陽子の父・博は、加賀染振興会が設立された1978(昭和53)年当時、すでに巨匠の一人であった。日本工藝会の会員として、日本伝統工藝展などで活躍し、幾たびも入選作品を生み出していた。

娘である陽子さんは、父の背中を見ながら同じ作家としての道に進んでいたが、1979(昭和54)年に、博氏が63歳で亡くなってしまう。父の作風は、絵画的に模様を描くことを基本としながらも、図案にはデザイン性があり、あまり堅苦しさを感じさせない作品もよく見られた。

挿し色を見ると、加賀らしい薄色濃淡で上品な印象を受けるが、一部振袖などには、花にインパクトのある赤系の色を使い、豪華で大胆なものも見られる。陽子さんの作品にも、同じ雰囲気を感じさせるものがあり、やはりしっかりと技が受け継がれていることが判る。ちなみに陽子さんの落款は、博氏にちなんで「博寿」である。

 

この水野陽子には、三人の弟子がいる。今日の作者・星野高志と、松本基之、西肇子。そのうち、松本基之の作品は、以前このブログでもご紹介した(昨年4.23の稿・鴛鴦に観世流水の黒留袖)。星野と松本は兄弟弟子だが、モチーフも配色も違う。そんなところも比較しながら、この品物をご覧になると面白いと思う。

 

ご覧の通り、海岸の入江を描いたものだが、キモノに使われる風景文様には、水辺の景色を捉えているものが多い。茶屋辻と流水を組み合わせた伝統文様、御所解(ごしょどき)もその一つである。

海辺や砂州の風景をモチーフにしたものは、水辺文様と呼ばれている。この品物のように、海岸の全景を描いたものは、「海賦(かいふ)文様」という名前が付いている。その他、砂州を描いた「州浜(すはま)文」や、浜辺に立つ松並木を描いた「浜松(はままつ)文」などが、水辺文の範疇に入るだろう。

 

前身頃の裾から、おくみを見渡してみた。左上の奥が、模様の中心となる前おくみだが、深い入江になっている。ぼかしを使って上手く遠浅の海が描かれており、良質な海水浴場になりそうな砂浜が見える。

画像の右側が、後身頃に繋がっているところ。品物全体で、一つの風景を表しているので、仕立をする時には、模様を繋ぐ部分の柄合わせは、きちんとしないといけない。

 

上前おくみの模様を拡大してみた。二艘の手漕ぎ船が係留されている、静かな浜辺。簡素な小屋(塩屋)の隣には、網干の姿が見える。海の深度を、微妙な色の濃淡で上手く表現している。

網干模様。水辺文様の中では、もっともポピュラーな模様の一つ。網干という名前で判るように、漁師が干す網の姿を図案に取り入れたもの。独特な三角形は、浜辺でも目立つものであり、姿が美しい。だからこそ、文様に取り入れられたのだろう。

網干は、御所解文様や州浜文様でも、よく使われており、水辺文の中では、欠かすことの出来ない名脇役といったところか。画像でわかるように、網干の網は糸目で表現されているので、直線的ではなく微妙にぶれている。手描き友禅ならではの自然さが、模様の細部にも見て取れる。

 

こちらは、後身頃の模様。前おくみから見れば、入江の反対側にあるもう一つの船着場。前の合わせから、ぐるりと後に廻って着姿を見ると、この模様が裾に表れている。一枚のキモノで表現された海辺の風景は、見る人に絵画のような印象を残すだろう。

杭に繋がれた船。こちらの船は帆船のようだ。海の中には、糸目で小さな波が付けられている。小舟一つの配色をみても、柔らかくて優しい、加賀らしい色で丁寧に付けられている。

模様全体から感じ取れる品の良さは、どんな細部の模様にも手を抜くことなく仕事をほどこした、小さな積み重ねの結果である。加賀友禅の作品には、その一つ一つの模様から、リアルな作者の息遣いが感じられる。

 

この品物の中に見られる草木は、松・笹(竹)・梅の三種で、言わずと知れた吉兆文トリオ。色留袖や黒留袖のような、「おめでたい席」に限定して使われるキモノには、好んで描かれることが多い。

松と梅を拡大してみた。加賀友禅で表現される花は、小さくて細やか。水野博とは兄弟弟子(師匠が同じ土屋素秋)にあたる矢田博は、小さい草花を写実的に描くことに秀でた作家であったが、彼は「10円玉よりも大きい花は描かない」と述べている。

この星野高志の作品の花も、小さいもの。これを、外から内側に向かってぼかしを入れるという、加賀独特の技法で表現している。

 

キモノの裾模様を、少し遠目から写してみた。海賦文様は、このような感じになる。

作家達が描く風景模様には、出自、つまり原典のようなものが隠されていることが多い。おそらく、この海賦文様にもあるだろう。少し、それを調べてみた。

 

風景を写し取るような、写生的な模様が表れ始めたのは、鎌倉期あたりからと考えられている。貴族から、武家へと時代が移り変わる中で、描かれる文様の姿も変化する。

鎌倉期の絵画や蒔絵などには、住吉信仰を題材に取ったものが、多く見出せる。現在、日本各地に、「住吉神社」と名の付く社は、2000以上あると言われているが、その多くは海に近い場所に建立されている。それもそのはずで、この社に祀られている神が、筒男三神(つつのうさんしん)という、海の神だからだ。

この神は、海の神・漁の神として知られ、海に生きる人々にとって、この時代大切な存在であった。

 

そんな、住吉社の風景を写し取った代表的なものに、日光・輪王寺所蔵の「住吉蒔絵手箱(すみよしまきえてばこ)」がある。作られたのは、1228(安貞2)年というから、13世紀の鎌倉時代である。

この手箱の図案を見ると、州浜に松と鳥居、波に千鳥、塩屋と釣り船、さらには沖に浮かぶ淡路島の風景があしらわれている。まさに、今日ご紹介した色留袖の海賦文様と良く似たモチーフになっている。これは、輪王寺の手箱だけでなく、この時代にはポピュラーな風景模様として、使われていたのだ。

つまり、今日の品物の図案が、「住吉信仰に由来した海賦文様」と考えることが出来るだろう。キモノや帯のモチーフとなる多くの文様には、その基となっているテーマがある。調べることで、模様の奥深さを知ることにもなり、より興味を持って品物を見ることが出来る。

品物に付けられている、様々な文様。製作者の意図を知ることが出来れば、また違うキモノや帯の楽しみ方も、生まれてくるように思える。

 

かささぎの 渡せる橋に おく霜の 白きを見れば 夜ぞ更けにける  (大伴家持 新古今和歌集・620 冬)

牽牛と織姫のために、鵲が渡した橋・天の川。そこに輝く星々の白さを見ていると、しみじみとした冬の夜更けの静寂さが、感じられる。

これは、冬の歌ですが、七夕に由来する天の川の伝説を詠んだもの。作者は、万葉集の主撰者といわれた、奈良期の歌人 中納言・大伴家持。この時代から、すでに七夕がポピュラーな年中行事となっていたことがわかります。

また、そうめんの発祥の地・奈良県桜井市には、崇神天皇時代より作られていたという伝説があります。「三輪そうめん」の故郷、三輪山の周辺は、初期のヤマト王権発祥の地とも考えられているので、この話もまんざらではないでしょう。ただ実際には、7世紀前後に中国から、小麦栽培と製粉技術が伝えられてから、と言われています。

 

歴史的に見れば、七夕とそうめんは、節分における豆や丸かぶり寿司や、クリスマスにおけるケーキや七面鳥のような、密接な繋がりがあったことが判ります。厳しい暑さが始まるこの季節は、七夕でなくとも、自然にそうめんが欲しくなりますね。

今日も、最後まで読んで頂き、ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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松木 茂」プロフィール

呉服屋の仕事は時代に逆行している仕事だと思う。
利便性や効率や利潤優先を考えていたら本質を見失うことが多すぎるからだ。
手間をかけて作った品物をおすすめして、世代を越えて長く使って頂く。一点の品に20年も30年も関って、その都度手を入れて直して行く。これが基本なのだろう。
一人のお客様、一つの品物にゆっくり向き合いあわてず、丁寧に、時間をかけての「スローワーク」そんな毎日を少しずつ書いていこうと思っています。

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