バイク呉服屋の忙しい日々

にっぽんの色と文様

にっぽんと秋を象徴する花 菊文様

2015.10 13

日本人は他人に対する時に、「すみませんが」とか「申し訳ありませんが」という言葉が先に出てくる。感謝の言葉も、「ありがとう」よりも「すみませんでした」であることの方が多い。欧米人から見ると、このような日本人の姿は、不思議に感じられる。

 

日本人の良心というものは、それぞれの人が持つ内面的な基準ではなく、「世間の目から見てどう思われるか」、という外的側面が基礎となり、形成されている。

欧米人の行動規範は、心の中に宿る神の規範に背いているか否か、というキリスト教信仰に基づく「罪の文化」によるものだが、日本人が恐れるのは、世間体・周囲の人の目で、それは「恥の文化」である。

これは、1946(昭和21)年、アメリカの女性人類学者、ルース・ベネディクトが著した日本文化論、「菊と刀」の一節。

 

この本には、戦時下におけるアメリカの日本研究、という位置づけがある。日本の敗色が濃くなりつつあった頃、すでにアメリカでは戦後の日本統治の青写真を作るために、「日本民族とはいかなるものか」という研究が進められていた。

アメリカ・戦時情報局より研究を委託されたベネディクトは、日本に関する書物や映像を参考にしたり、アメリカの在留邦人から聞き取り調査をして、資料を集めた。戦時中のことなので、直接日本へくることなど出来ないため、間接的に日本人の意識を探るしかなかった。

 

欧米人が戦争を始める時に最も重要視するものは何か。それは戦艦や飛行機、さらに武器や弾薬など、実質的に戦いに使う道具である。それが日本人だと、「人間の精神力」になる。この日本人の戦争観念は、欧米人にとっては計り知れないものだったに違いない。「玉砕」や「特攻」のような戦い方など、彼らには思いもよらないことである。

べネディクトは、このような日本人の姿の源泉はどこにあるのか、考えている。そして、それは「日本人の持つ義務から」と結論付けている。では、義務とは何か、それは「恩」だと言う。この恩には二つあって、一つは「忠=国への恩」、もう一つは「孝=親への恩」。

 

古来より日本は、人々が統治者から「恩」を授けられて生きてきた。領主・将軍・天皇と時代により統治者は変われども、民を律する手法として恩が使われたのだ。明治維新以降は、国民の精神的統一を図る道具として、「忠」が重要視される。忠とは国=天皇に対する恩であり、国民にとって唯一無比な大切な価値観になっていた。

だから、天皇の名の下で始まられた戦争は、「忠」を果たす最大の契機になる。戦いに赴くことが最高の義務だからこそ、躊躇なく命を投げ出すことが出来る。そしてそこにはもう一つ、日本人が持つ「恥」という意識が、投影される。

日本人が恐れるのは、他人の目。どのように自分が評価されているか、ということをもっとも重要視する。「忠」に対して不遜な行為をとれば、他の日本人からは非難を受ける。だから、命を捧げて戦い抜くことは、名誉と受け止められる。戦いに敗れて戻ってくれば、「生きて恥をさらす」ことになる。

日本人の戦い方は、「忠」という為政者への義務と、「恥の文化」が相まって、形作られたと見ている。だから、戦争に必要なのは「武器」ではなく、「精神力」という訳である。

 

「菊と刀」は、日本文化や日本人の精神などの内面を、初めてアメリカ人が深く考察したものだが、戦後民主主義により「忠」の意識は消えたが、「恥の文化」は、まだかなりこの国の中に残っているように思える。

「菊」という花は、戦前では天皇を象徴する花。十六弁八重菊は、言うまでもなく天皇の紋章である。今でも、「菊の御紋章」などという呼び方を耳にすることがある。

前置きがやたらと長くなってしまったが、今日はこの「にっぽんの象徴花」である菊文様を取り上げることにしよう。

 

(藍地 光琳菊染疋田絞り模様・訪問着)

菊は、天皇家の象徴花であると同時に、秋を象徴する花でもある。この由来は、年中行事である節句と関わりがある。

中国の陰陽思想では、偶数が陰で奇数を陽としている。陽は能動的なものを表現しているために、この数が重なると陽の気配が強すぎて、不吉であるという考え方があった。

この奇数が重なる日が「重陽(ちょうよう)」ということになり、強い陽の気配を鎮めるため邪気払いをした。これが後には、陽が重なることは「吉兆日」であると考え方が変化し、それぞれの日が季節の節目・節句として祝われるようになっていった。

一年の中で、月と日に同じ数が並ぶ日は5日。1月1日(元旦)・3月3日(桃の節句)・5月5日(菖蒲の節句)・7月7日(七夕)・9月9日(菊の節句)。11月11日は単数字の並びではないので、重陽ではない。

今に伝わる年中行事・五節句は1月7日・人日(じんじつ)の他は、3月3日・上巳(じょうし)、5月5日・端午(たんご)、7月7日・七夕(しちせき)、9月9日・重陽(ちょうよう)である。いずれも奇数重なりの重陽日であるが、9月9日だけに重陽という名前が付いているのは、9が奇数の中で一番大きい数、つまりこの日が最大の重陽日だからである。

それぞれの節句日は、季節の節目にもあたり、平安時代からは宮中で宴会が開かれるようになった。これが節会(せちえ)である。宴席では、旬の草花を愛でながら、酒が酌み交わされていた。

9月9日の重陽が、菊の節句と呼ばれているように、旧暦のこの日あたりは、ちょうど菊の花の盛り。節会では菊の花を愛でながら、花びらを杯に浮かべた菊酒を楽しみ、宴が盛大に催されていた。

 

花弁や蘂を略し、花を単純化して図案に描いた尾形光琳。このような形で模様付けされた花を、光琳~と呼んでいる。上の画像は菊なので光琳菊、梅なら光琳梅で、椿ならば光琳椿になる。

この訪問着は、光琳菊を染疋田だけを使って表現したもの。この技法は絞り技法の一つ、疋田絞り(鹿の子絞り)と同様の模様の形を染を使って表すものである。染疋田には、手描き疋田と摺り疋田(型疋田)の二つがあり、当然手描きは、一目ずつ人の手で描いていくもので、摺りは型を使って摺り込んで染めていくもの。模様として同じように見えても、手の掛かり方は雲泥の差である。

この訪問着に使われているのは、手か型かどちらか判然としない。あしらわれている光琳菊の形や大きさが違うので、型を使うとしたら、それぞれの模様に合わせて型を作らなければならない。型を作るのも人の手なので、自然と絞りの目は不揃いになる。

この染疋田を見ると、もしかしたら手描きかとも思えるのだが、確定は出来ない。このような品物の部分的なあしらいの場合、手か型かという判断は、難しい。

 

(薄茶地色 大菊模様・江戸小紋)

こちらは、大輪の菊の花だけを型として使った、めずらしい江戸小紋の品物。花弁の一枚一枚が流線型に重なり、遠目からみた時には、菊とは思えない。次の画像で拡大したところをお目にかけるが、外側から内へ向かって徐々に花びらの大きさが小さく付けられていて、模様が大輪の菊花となっていることがわかる。

この菊図案のような花は「厚物」と呼ばれ、多数の花弁が中心に向かい、盛り上がるよう見える大菊のこと。菊の品評会などでは、花びらの起伏がないものが良品とされている。

花の蘂へ向かい、流れるように一枚一枚付けられている花弁。この細密な型を彫った手間を伺い知ることが出来る。この品物は、江戸小紋の意匠の中でも、かなり凝ったものの中に入り、控えめにさりげなく秋を演出している。大胆に菊を表現している最初の訪問着とは、対照的である。

 

(秋草文様 型友禅・黒留袖)

キモノの図案としての菊文様は、上の二つの品のように単独で描かれるものよりも、様々な花のあしらいの一つとして、付けられることの方が多い。例えば、桜と菊が同時に付けられているものであれば、それは春でも秋でも季節を問わずに使えるように、という意図が感じられる。

この黒留袖は、花といっても秋草だけで表現されているもの。つまりは「秋の礼装」を想定して作られた品である。昨今では、黒留袖そのものが用意されなくなったが、一昔前までは、春用・秋用と二枚の留袖を使い分ける方がおられた。

画像は、模様の中心となる上前おくみと身頃を写したものだが、秋草模様の中で、やはり菊がメインの位置を占めていることがわかる。一番目立つところに付けられるのが菊で、女郎花や萩、桔梗、撫子などは引き立て役に見える。

菊の形そのものも、光琳菊とも、大輪の菊とも違う、きわめてスタンダードな姿で描かれている。これよりもっと花弁が少ない小花で、「野菊」をイメージして付けられることもある。

今日は、三つの菊文様をそれぞれ違う形で表現した品物を見て頂いたが、形や大きさ、花弁の数や蘂の色などで、かなり印象が変わると感じて頂けたと思う。キモノや帯の中で、多種多様にあしらわれる「菊」。これは、桜と並ぶ国民的な花として、長い間日本人に愛されてきた由縁でもあろう。

 

戦後になり、天皇が統治者ではなく象徴という存在になっても、十六弁八重菊の御紋には、特別な威厳が漂っています。そもそもこの紋が天皇の紋となったのは、平安末から鎌倉冒頭にかけて在位した後鳥羽天皇(のちに上皇・法皇)が、菊の花をこよなく愛し、自分の印として使用したことに始まります。

後鳥羽天皇は、平家滅亡から源氏の政権奪取、そして北条氏の台頭という激動の時代を生きた人ですが、1221(承久3)年に、執権・北条義時と対立して承久の乱を起こし、破れて隠岐の島へ流されて最後を迎えます。

武士の勃興に対し、院政を引いて何とか天皇親政を維持しようとしましたが、時代は待ってくれず、これ以後明治に至るまで、天皇の下へ実権が戻ることはなかったのです。

菊の御紋は、江戸期までは特別に扱われておらず、一般庶民でも自由に使うことが出来ました。それは十六弁菊の形をした菓子や、仏具の飾り金具などに数多く使われていたことでもわかります。江戸時代の禁紋は、当然徳川家の「葵の御紋」ですね。

 

明治以降、日本国民は天皇の「臣民」となり、十六弁八重菊が、特別な意味を持って扱われたことは、周知の通りです。天皇親政を目指した後鳥羽天皇の愛した菊の花が、650年の時を越えてようやく国のシンボルとなったことは、天皇が統治者として復活した証ということになりましょうか。

今日も、最後まで読んで頂き、ありがとうございました。

 

 

 

 

 

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松木 茂」プロフィール

呉服屋の仕事は時代に逆行している仕事だと思う。
利便性や効率や利潤優先を考えていたら本質を見失うことが多すぎるからだ。
手間をかけて作った品物をおすすめして、世代を越えて長く使って頂く。一点の品に20年も30年も関って、その都度手を入れて直して行く。これが基本なのだろう。
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