バイク呉服屋の忙しい日々

にっぽんの色と文様

「球美人」が織りなす美しい草木紬・久米島紬

2015.05 20

沖縄の人にとって特別の日が二つある。5月15日と6月23日である。

5月15日は沖縄返還の日。サンフランシスコ平和条約に基づき、1952(昭和27)年4月28日からアメリカの統治下にあった沖縄が、日本に返還されたのが、1972(昭和47)年、5月15日であった。当時のアメリカ大統領・ニクソンと佐藤栄作首相の間で、沖縄返還協定が結ばれたが、日米安全保障条約の延長と引き換えに締結されたものであり、沖縄駐留米軍の基地はそのまま維持され、今に至っている。

6月23日は沖縄慰霊の日。第二次大戦の末期、1945年3月26日アメリカ軍の上陸侵攻により、沖縄は焦土と化した。2ヶ月あまりの死闘の末、日本側の戦死者は18万8千人余、そのうち沖縄県人は12万2千人(民間人9万4千人あまり)を数えた。沖縄県は、日本の中で、唯一戦場となった場所である。沖縄司令官・牛島満中将の自決により、日本軍の組織的戦闘が終わった日が6月23日。毎年この日は、激戦地の一つである糸満市・摩文仁(まぶに)の丘で、沖縄県戦没者追悼式が行われている。

 

沖縄県民にとって5月と6月は、否応無く苦難の歴史と向き合うことになる。現在でも、日本における米軍軍用施設の74%は沖縄県に依存しており、その土地面積は沖縄本島の19%にあたる。今の時期ならずとも、本土に暮らす我々は、沖縄に思いを寄せなければいけないと思う。

そんな沖縄には、厳しい戦後をくぐりぬけて、守られ続けた伝統工芸品が数多く残る。今までこのブログでも、琉球絣や読谷織についてお話したことがあったが、今日は、沖縄本島から西へ100K・久米島(くめじま)で織られている草木紬・久米島紬についてご紹介してみよう。

 

(蘇鉄・車輪梅・泥染 十字絣に縞 草木・土併用染め久米島紬)

 

久米島は「球美人(くみんちゅ)」の島と言われる。球美(くみ・くめ)は古来からこの島の呼び名であった。715(和銅8)年、続日本紀には「南嶋、奄美、夜久、度感、信覚、球美人五十名、来朝。」との記述が見える。南嶋というのは、種子島や屋久島、トカラ列島、奄美などの島々を指す。この中の球美というのが久米島のことで、律令制度が出来てまもないこの時代に、日本の遥か彼方のこの島から、朝廷を訪ねた人物が存在していたことを表している。なお、夜久(やく)は屋久島、度感(とかむ)は徳之島、信覚(しがき)は石垣島の呼び名である。

なぜ、久米島に球美の呼び名が付いたのだろうか。琉球諸島の中でも一番美しい島だったのか、それとも美しい女性が多く住んでいた島だったのか、それはわからないが、何とも魅力的な名前が付けられたものだ。

 

久米島紬の発祥は、1713(正徳3)年に当時の琉球国王・13代目尚敬王に上覧された「琉球国由来記」の記述でわかっている。この本は、当時の国王が王府に命じて作らせた地誌であり、現在沖縄の歴史を知る上では、第一級の資料となっている。

この、琉球由来記・巻19に久米島の条項があり、その中に「堂之比屋」という人物が中国からの漂流民と交流後、中国に渡り養蚕技術を伝授されたことが記されている。こののち17世紀になって、国王の命で島へやってきた坂元普基、友寄景友という人物達により、具体的な養蚕の方法や糸染め、織方などの技術が伝えられ、その後の発展に繋がった。

1609(慶長14)年、薩摩藩主・島津家久による琉球征伐により、琉球・尚王朝が倒れたことで、久米島紬は薩摩への献納品(貢納布)という役割を果たすことになる。江戸中期には、琉球紬の名で江戸市中まで伝わることにより、飛躍的に生産が増える。この時期は幕府への納税品(米に代わる代納品)としての役割もあったことが、増産の一因ともなった。

 

明治以後は、養蚕技術の改良や、織物技術の進歩(地機から高機主体となったことなど)があり、織り手の育成も順調に進む。徒弟学校と呼ばれる女子技術養成学校が設置されたことにより、生産が進み、1923(大正12)年には、生産反数は42、129反に上った。

しかし、昭和恐慌以後は徐々に減産に転じ、戦争前の1937(昭和12)年には2000反台へと落ちる。そして沖縄戦を含む戦争の混乱により、生産は途絶えた。

戦後は、1950(昭和25)年頃から養蚕を復活させる人が現れ、島内の具志川村において久米島紬復興協議会が結成され、さらに戦前と同じように、技術養成学校が琉球政府の補助を受けて、開設された(具志川村女子工芸学院)。

1975(昭和50)年の「伝統工芸品」の指定、さらに1977(昭和52)年には久米島紬保持団体が技術保存団体としての認定を受け、現在では121名の組合員と17名の経済産業大臣認定の伝統工芸士が所属している。1992(平成4)年には、久米島紬ユイマール館という展示作業場と即売所などを兼ねた観光施設をオープンさせ、多くの人で賑わいを見せている。

 

施されている文様。十字絣(カシリ)と縞(アヤ)の中に複雑な菱文様が見える。いわゆる「アヤ・ヌ・ナーカー」(縞の中に絣を入れた文様)と呼ばれる図案。

久米島紬の特徴は、次の四つ。2004(平成16)年に、重要無形文化財に認定された時の、認定要件でもある。1・使用糸が紬糸あるいは引き糸であること。2・天然染料使用。3・手くくり絣糸。4.手織り。中でも、この紬の最大の特徴は、久米島に自生している植物を使った糸染めにあろう。

 

紬証紙の横に貼られた染色材料。ソテツ・ティカチ(車輪梅)・泥

久米島紬の代表色といえば、黒褐色の深い色を思い浮かべる方が多いと思う。この材料はグールとティカチ。グールはサルトリイバラというユリ科の多年低木、ティカチはバラ科の常緑低木で、いずれも島内に自生している。

グールは根を、ティカチは幹を細かく割り、これを煎じて染液を作る。まずグール染を日に5~6回、十日ほど繰り返し、さらにその糸をティカチ染で同様に日に5~6回、二週間ほど。その後、泥田の中で媒染して干す作業をが繰り返されて、初めて深い黒褐色の色が得られる。

この他、色ごとに使われる材料と媒染剤が変わる。楊梅(ヤマモモ)とクルボー(ナカハラクロキ)の幹と皮で作る染液は、媒染剤に明礬(みょうばん)を使えば黄色に、泥ならば緑系の鶯色となる。

上記のグールとティカチを使った染液も、媒染剤が明礬ならば、赤茶色になり、椎やソテツはベージュ系の色を出す時に使われる。また、黄色い花を付ける、オオハマボウ(ユウナ)の幹を炭化させた粉末を使う染液を、明礬で媒染すると、美しいシルバーグレーの色が出る。

 

地の色がソテツ、赤茶色の縞とXに交差した絣がティカチ染料と思われる。

久米島紬の図案は、琉球絣などと同様に「御絵図帳(みえずちょう)」などを参考にする。御絵図帳とは、琉球王朝時代のデザイン帳である。貢納布を織らせるために、王府(首里納殿)の役人・絵図奉行が作成したもの。600種もの図案は、動植物や日用品、さらに自然現象など人々の生活に身近なものを題材にして形作られているものばかりである。(2013・8・2 絣の原風景・ティジマ琉球絣の稿を参考にされたい)

貢納布の役割があった久米島紬や、宮古・八重山上布など沖縄本島から離れた島々にも、この御絵図帳は送られていた訳で、沖縄の織物に共通する図案の原典と言えよう。現在は、図案の古典とも言える御絵図をアレンジし、組み合わせることにより、多様の図案が生み出されている。上の品物の中に見える「X」交差の菱形絣も、複数の図案が組み合わされたものと、考えられる。

図案により絣の構成が決まった後、絣作りの作業に入る。経は印棒、緯は絵図式という技法を用いて、絣を括る場所の墨付け(印付け)を行う。経・緯糸ともに糊付け、繰り、整経されたところで、絣括りとなる。手括りの難しさは、一定の強さで括られないと模様が不鮮明になったり、墨付けの位置とずれて括れば、絣模様もずれてしまう所にあり、細心の注意が必要となる。括りが終われば、糸染めの工程となる。

また、この紬には「きぬた打ち」という特徴的で面白い工程がある。これは、織り上がった生地を布で包み、石の台の上に置き、それを杵で思い切り叩くというもの。回数は500回ほどで、多くの女性職人には大変な重労働となる。この作業の出来が、生地の光沢やなじみという点で大きく変わるため、仕上げの重要な作業となっている。

 

製織者は平野厚子さん。品物を織っただけでなく、図案、絣作り、糸染め、仕上げまでもが、彼女の手でなされたもの。

久米島紬の職人は、たった一人で工程の最初から最後まで貫徹しなければならない。すなわち、図案作りから、糸染め、絣作り、糸染め(染料作り)さらに製織、仕上げ(きぬた打ちを含め)までである。島では、沖縄独特のクワ(シマクワ)が栽培され、繭作り(養蚕)も積極的に進められている。原料・染料ともに島内の天然素材を使い、製品は一人で作るという古来からの技法を堅持しようという心意気であろう。

 

技術的は部分を所々端折りながら、久米島紬についてお話してきた。

島の自然そのものを生かした染料と、受け継がれる琉球文様、それが一人の人の手だけで表現されていく。まさに久米島の風土と人とが固く融合され、完成されたものだ。

今、島の職人は120人ほど。下は20代から上は80代まで、ほとんどが女性である。紬の伝承者を育成する「久米島紬保持団体(17名の技術者が在籍)」が後継者を募集すると、予想より多くの希望者があるようだ。現在、20人以上の研修生が、ベテラン職人の技を受け継ごうと努力している。

仕事の全てを一人で全うするものだけに、今修行している若手が職人として育てば、久米島紬の未来は明るいものになる。後継者不足で苦しんでいる伝統工芸品産地と比較すれば、上手くいっている方である。現在の年間生産反数は600反ほど。伝統的技法を守ることが最優先であるならば、数はそう増えることはないと思われる。

数に限りがあるので、どうしても価格が上がってしまうが、出来る限り流通段階で努力して、多くの方がこの品物に手を通せるようにしたい。それは、この一反一反には、球美人(くみんちゅ)の汗と創意が詰まっているから。

 

今月はまだ、コーディネートの稿を書いていなかったので、次回、今日ご紹介した品物とは違う模様の久米島紬で、初夏らしい組み合わせを表現してみたいと考えています。

 

1429(正長2)年、尚巴志の三山統一により琉球王朝が生まれ、その地理的条件から貿易の中継基地として繁栄していきます。17世紀初めには薩摩藩の侵略を受けて支配され、明治維新後の琉球処分により、沖縄県が生まれます。そして先の大戦では、唯一戦場となった上に戦後アメリカの支配下に置かれ、苦難の後、本土復帰を果たします。

考えてみれば沖縄の人たちは、この400年の間、絶えず誰かに支配されてきたと言えるのではないでしょうか。そんな過酷な状況の中で、変わることなく受け継がれてきた沖縄の染織品には、ウチナンチュ(沖縄人)の魂が込められているように思います。

基地問題はもとより、沖縄の歩んできた道を考えつつ、ヤマトゥンチュ(本土人)が沖縄の心を慮ることが何より大切なのではないでしょうか。

今日も、最後まで読んで頂き、ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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松木 茂」プロフィール

呉服屋の仕事は時代に逆行している仕事だと思う。
利便性や効率や利潤優先を考えていたら本質を見失うことが多すぎるからだ。
手間をかけて作った品物をおすすめして、世代を越えて長く使って頂く。一点の品に20年も30年も関って、その都度手を入れて直して行く。これが基本なのだろう。
一人のお客様、一つの品物にゆっくり向き合いあわてず、丁寧に、時間をかけての「スローワーク」そんな毎日を少しずつ書いていこうと思っています。

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