バイク呉服屋の忙しい日々

今日の仕事から

取引先散歩(6) やまくま・京都北山 紫竹下長目町

2015.01 17

『幸せ運べるように』という歌をご存知だろうか。神戸の小学校教諭だった臼井真さんが作った、阪神淡路大震災復興の歌である。「地震にも負けない、強い心を持って」というフレーズで始まるこの歌を聞くと、いつも少しだけ涙腺が緩む気がする。

学生の頃知り合った、神戸在住の大切な友人がいる。震災の時は、ポートアイランドに住んでいたので、心配になり手紙を出した。数が月後に戻った返事と一緒に、一本のテープが添えられていた。

そのカセットテープから流れてきたのが、「幸せ運べるように」だった。友人には小学生のひとり娘がいる。その子が、当時通っていた港島小学校のコーラス部に所属していて、毎日歌っていたこの曲を送ってくれたのだ。

この歌には、今でも、子ども達の無限の力を感じる。困難から立ち上がる時に勇気を与えてくれるメッセージが散りばめられている。

阪神淡路大震災から20年。忘れないことの大切さを、改めて心に刻む日である。

 

昨日遅くに、京都から戻ってきた。毎年正月明けの第二週目には、取引先の初市に顔を出し、その後何軒かの機屋を回る。

JRで甲府から京都へ行くには、経路が幾通りか考えられる。東京まで出て新幹線を使う場合、静岡まで身延(みのぶ)線を使う場合、長野の塩尻を経由し、名古屋から新幹線を使う場合などである。

どの経路を使っても、だいたい4時間ほどかかる。バイク呉服屋は、少しでも経費を節約しようとするので、いつも一番安い料金の塩尻・名古屋経由で京都に向かう。

まず、甲府から普通列車で塩尻に向かい、そこで名古屋行きの特急しなの号に乗り換える。そして、名古屋からは新幹線。新幹線に乗る距離が短いほど、料金は安くなる。東京経由よりも、往復運賃で5千円は違う。道中の昼飯も、名古屋駅ホームの立ち喰いきしめんと決めている。つくづく立ってモノを食べることが好きな性分なのだと思う。

リニア新幹線が開業すれば、名古屋まで20分ほどで着くようになるらしいが、それまでこの仕事をしているかどうか、不明だ。リニアが走るのが先か、バイク呉服屋が商売にキリをつけるのが先か、果たしてどうなることやら。

 

今日は、出張から戻ったばかりということもあり、久しぶりに取引先散歩の稿を書くことにしよう。ご紹介するのは、「やまくま」さんという帯の買い継ぎ問屋である。この問屋さんがあるおかげで、たくさんの機屋を直接訪ねて品物を選び、仕入れをすることが出来る。

やまくまさんは問屋なのだが、仕事に携わっているのは、三代目に当たる娘さん一人だけである。女性が一人で問屋業を営んでいるというのは大変珍しいが、私にとっては得難い方になっている。この人のお陰で、この業界に古くから根付いている商習慣と違う形で、仕入れをすることが出来るのだ。そのあたりを含めて、話を進めていこう。

 

北山の閑静な住宅街に居を構える「やまくま」さん

京都の問屋と言えば、室町と呼ばれる中京区に集中している。地下鉄烏丸線の駅で言えば、四条や烏丸御池だが、やまくまはそこから15分ほど北へ上った北山駅が最寄駅。駅のそばには府立植物園や京都コンサートホールがあり、京都府立大学のキャンパスが広がっている。伝統的な京都の町並みのイメージではなく、自然豊かな住宅街といった感じだ。

地下鉄烏丸線・北山駅。二駅先はこの線の終点、宝ヶ池のほとりに建つ京都国際会議場。

やまくまのある紫竹(しちく)は、大正7年に京都市に編入されたが、それまでは大宮村という行政区域の中にあった。今でこそ、堀川通・北山通・大宮通などの幹線道が整備されて、京都中心部へのアクセスは容易になっているが、その昔は竹林が密生する野が広がっていた。

紫竹に隣接する地域が紫野(むらさきの)。この地名の方が一般には馴染みがあるかも知れない。紫野は、平安時代から洛北七野(内野・北野・上野・平野・紫野・蓮台野・〆野)の一つであり、狩や野草を摘む場所となっていた。892(寛平4)年に菅原道真が編纂し、完成した平安時代の歴史書・類従国史(るいじゅうこくし)の中の延暦14年の条項の中に、桓武天皇が紫野で狩をしたことが記されている。

紫竹も紫野も大徳寺の北方に当たる。紫竹の名は、昔から黒紫竹(黒い竹)が群生していた所とか、紫野の近くで竹の多い所という意味で付けられたようだが、応仁の乱の合戦の際に、この場所の竹が血で紫に染まったからとされる説もある。

 

また、紫竹地区の中には、紫竹牛若町という字が見える。これは牛若丸に由来するもので、それを裏付ける石碑や地蔵が残されている。この一帯が、源頼朝・義経の父、源義朝の別邸があったとされているからであろう。

この牛若町内には、牛若丸の「へその緒と胞衣」が埋められた胞衣塚(ほういづか)があり、昔大徳寺の末寺・大徳庵(廃寺)があった場所には、牛若丸の産湯につかった井戸の跡とされる産湯ノ井跡(うぶゆのいあと)がある。

この地域から少し離れるが、同じ北区内の紫野上野町にある光念寺には腹帯地蔵(義経の母・常盤御前の守護尊とされる)が、またさらに北方の鷹が峰地区にある常徳寺には常盤地蔵(常盤御前が安産祈願のために彫ったとされる像)が残されている。

話がわき道へ逸れてしまったが、一つ一つ京都の地名を調べていくと、千年の歴史を感じさせる逸話にあふれている。

 

表札より数倍大きい、会社銘板。

やまくまの女主人、山田裕記子さんは三代目にあたる。今の場所・紫竹に移ったのは5,6年前からである。画像から分かるように暖簾が掛けてなければ、普通の住宅にしか見えない。建物は今風の洋建築になっている。それもそのはずで、ここは以前からの自宅であり、店は別の場所にあった。

以前の店は、智恵光院の門前。この寺は浄土宗・知恩院派に属し、平安末期の1294(永仁2)年、五摂家の一つである鷹司家の創始者・鷹司兼平により創建された。安置されている六臂(ろっぴ)地蔵は、平安時代の歌人・小野篁(おののたかむら)の作として知られ、ここにお参りするだけで、六地蔵分のご利益があると伝えられている。

智恵光院の前の道が智恵光院通で、北は大徳寺門前から、南は二条城の裏手まで、西陣の町を南北に貫いている。現在の場所は西陣から少し離れている(車で5,6分だが)が、前の場所は西陣のほぼ真ん中。この場所は、各機屋を巡るには、車よりも自転車の方が早いような好立地だった。

 

やまくまの創業者は、先々代の祖父・熊治郎氏。1895(明治28)年の生まれである。この方が小学校卒業と同時に、岩崎商店という白生地問屋に奉公に入ったのが始まりである。この店で修行を積みながら実力を付け、大番頭へと出世する。そして、二十数年を経た大正中頃に独立を果たす。場所は、智恵光院通より少し東の黒門通だった。

山田さんの話によると、当時の暖簾分けというものは、もと居た店と同じ品物の商いをすることが出来なかったようだ。つまり、白生地屋として開業することは許されず、違う品目を扱うことが不文律になっていた。これは、同じものを扱えば、必ず客を奪い取ることになり、軋轢が生まれる。それを避けるための智恵であった。

違う品物なら、岩崎商店を通じて知り合った客をスムーズに自分の店へ呼び込むことが出来る。熊治郎氏は帯扱いを専業に決めた。

「菱に上」の紋所は「岩崎商店」と同じもの。暖簾分けの印である。

熊次郎氏は、「熊さん」の通称で呼ばれていた。それが店名の由来だ。すなわち、「山田さんのところの熊さん」ということで「やまくま」という屋号になった。

 

帯を扱う問屋には、二通りある。このブログで度々ご紹介する龍村美術織物や紫紘は、製造・販売を一括して行うメーカー帯問屋にあたる。やまくまのような問屋は、買継問屋と呼ばれ、製造メーカーから帯を仕入れ、大手問屋に卸す。もの作りをしない、どちらかと言えば小売屋に近い商いの内容である。

西陣の小さな機屋は、なかなか自分で品物を捌けないので、売り先はもっぱらこの買継問屋に限られている。大手問屋でも、数多くの機屋の品物を扱うためには、買継問屋から仕入れる他に手段がない。

わかり難いので、その流通の流れを図式でご説明しよう。

メーカー機屋(龍村・川島・紫紘など)→大手問屋→小売屋 (メーカーと大手問屋の間に買継問屋が入ることもある。また、メーカーが直接小売屋と取引する場合もある。)

独立系の中小機屋→買継問屋→大手問屋→小売屋 (大手問屋と小売屋の間に地方問屋が入ることもある)

このような過程を経て、何軒かの問屋を通り、小売屋まで品物が流れる。小売屋はなるべくこの過程を削ることで、安く品物を仕入れようとする。例えば、メーカー機屋である龍村から直接品物を仕入れることが出来れば、それが出来ない店との価格の違いは明らかだ。

「利は元にあり」と言われるように、安く仕入れ、廉価で品物を売るためには、いかにこの流通段階を短く出来るかということに尽きる。なるべく問屋を経由せずに、製造者から直接品物を買うことが出来れば、それが一番である。

 

やまくまは、熊治郎氏に商才があったこともあり、多くの機屋から品物を仕入れ、有名な大手問屋と取引することに成功する。その後を継いだ二代目(山田さんの父上)になると、戦後の高度成長期の波に乗り、従業員を多く雇い入れて、商いを拡大していった。

取引先には、北秀、近藤伝、菱一など、いわゆる染めモノの高級品を扱うメーカー専門問屋が多かったため、多種多様な帯が求められていた。仕入れ先の機屋は200軒以上に上り、希少で高額な品物を沢山扱っていた。

やまくまさん宅の応接間の書棚には、貴重な染織関係の資料がずらりと並ぶ。祖父・父の代から受け継がれた店であることを、改めて偲ばせる。

正倉院の文様に関する資料。この本だけでも、かなり高価なもの。この他にも、文様や技法に関するものが数多くあり、帯問屋としてどのように仕事に向き合っていたのかという、その姿勢を伺うことが出来る。

 

さて、今の女主人裕記子さんは、私と同じ年・昭和34年生まれだ。彼女はこの帯問屋・やまくまの娘として生まれたのだが、まさか一人で商いをすることになるとは夢にも思っていなかっただろう。

彼女は、お婿さんを迎えて後を継いだ。商いはもっぱらご主人と先代の父親が主となり、為されていたのだが、今から20年ほど前に、病気でご主人を亡くしてしまう。二人の娘さんはまだ小さく、その上呉服業界全体が下降線を辿り始めた時期と重なった。

主な取引先だった大手問屋の業績は悪化し、帯を買い入れる量も減少する一方。ご主人が健在な頃は、商いの前面に立つようなことはなく、家庭を守ることに専念していたので、仕事には不慣れである。しかし、状況は待ってくれない。何よりも生きるために商いを覚え、子どもを育て上げなければならなかった。

その結果として、従業員を無くし、店を自宅に移すことを決意する。仕事の一切を一人で完結することで、困難を乗り越えようとしたのだ。

私がそんな彼女のことを知ったのは、2002(平成14)年頃だったように思う。今は廃業してしまった古荘(ふるしょう)という問屋を通してである。やまくまはこの問屋と取引があった。古荘の社長は、自分の店を閉める時、彼女のことをうちに紹介した。

先に表した流通経路を見て頂けばわかるように、通常我々小売屋が直接買継問屋と取引することはほぼない。間に大手問屋が入るのが普通だ。古荘の社長は、自分の店をたたむ置き土産として、うちとやまくまの橋渡しをしたのである。うちにとっても、流通段階を一つ省略することが出来て、よその店よりも安く品物を仕入れることが出来る。ありがたい話であった。

 

以来10年以上のお付き合いになる。なにしろ3代にわたり買継問屋を商ってきた店である。やまくまが扱った機屋の数は数百にも及ぶ。つまりは、それだけ自分が顔の聞く織屋を持っているということになる。

山田さんは、私を様々な機屋へ案内する。買継問屋でしか入れないような機屋にも直接行くことが出来、そこにある織り上がったばかりの新しい品物を沢山見ることが出来るのだ。そして、機屋の職人や社長から、モノ作りに関わる話を聞くことも出来る。

もちろん、山田さんには買継問屋としての役割があるので、品物に対して口銭を払う。つまり機屋→バイク呉服屋ではなく、その間を取り持つ・取り持ち代があるということだ。しかし、山田さん一人で商いをしているため、経費が掛からない。口銭の額は、機屋の価格に少し上乗せする程度なので、大変安く品物を仕入れることが出来る。おそらく、私の仕入れ価格は、大手問屋へ卸す価格と同等か、あるいはそれより安いかもしれない。

こうして、私も安く仕入れた帯を、市場価格より安く売ることが出来る。まさに、「利は元にあり」である。

 

もちろん、こうした取引は稀なことであろう。あくまで、個人と個人の信頼関係があってのこと、しかもお互いに「一人で商いをしている者同士」だからこそ、だと思う。

これからの時代、個人の専門店は仕入れ方の工夫を迫られることになる。今までの、通りいっぺんの流通だけに頼っていたのなら、個性的な商いは出来ない。自分の足で作り手の所へ出向き、自分の扱う品物を買い入れる。これに勝る方法はない。

 

山田さんの二人の娘さんは、すでに滋賀と神戸に嫁ぎ、帯問屋・やまくまとしての後継者はいません。バイク呉服屋にも三人の娘がいますが、後継者は見当たりません。

私と山田さんは同じ年であり、同じ三代目、さらに娘しかいなくて、跡継ぎもない。似たもの同士ということで、話も合います。そして、今後どのように商いの幕を引くかというところが、共通する悩みでもあります。

お互いこの仕事を終えるまで、現在のようなゆったりとした取引を続けたいと思っています。折角なので、今回山田さんに案内して頂いた機屋の中から、一軒を取り上げて、次回の取引先散歩の稿を書こうと考えています。その機屋は、「帯屋捨松」。ご存知の方も多いでしょうから。

また、長い稿になってしまいました。今日も最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

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このブログに掲載されている品物は、全て、現在当店が扱っているものか、以前当店で扱ったものです。

松木 茂」プロフィール

呉服屋の仕事は時代に逆行している仕事だと思う。
利便性や効率や利潤優先を考えていたら本質を見失うことが多すぎるからだ。
手間をかけて作った品物をおすすめして、世代を越えて長く使って頂く。一点の品に20年も30年も関って、その都度手を入れて直して行く。これが基本なのだろう。
一人のお客様、一つの品物にゆっくり向き合いあわてず、丁寧に、時間をかけての「スローワーク」そんな毎日を少しずつ書いていこうと思っています。

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