バイク呉服屋の忙しい日々

現代呉服屋事情

タンスに眠るキモノや帯の行方(前編・苦慮される「処分」)

2014.11 16

今、この国の中で、タンスの中に「眠り続ける」キモノの数はどのくらいあるだろうか。

総務省統計局が調査した、65歳以上の人口は、今年の9月現在で3296万人。そのうち女性は1875万人である。考えてみると、この世代は「キモノ」を冠婚葬祭に使った方であり、嫁入り道具として、「キモノをタンスに詰めて持ってきた」方でもある。また、中には「日常着」として、キモノを愛用された方もいらっしゃるだろう。

 

「高齢者」という範疇に入る女性、1875万人の7割が5枚のキモノと2本の帯を持っているとすれば、これだけで6560万枚のキモノと2625万本の帯があり、合わせて9185万点にもなる。もちろんこの数は、「かなり少なめ」に見積もったものであり、実際は一人あたりが持っている点数はもっと多いはずである。

現役世代の15~64歳の女性人口は3861万人。年齢が下がれば下がるほど、「タンスに眠るキモノを持つ人」の割合は減ると思われるが、それでも5000万点は下るまい。

さらに、「亡くなってしまった人」の品物も、まだ「タンスに残ったまま」という家もあるだろう。これまで考えれば、おそらく最低でも2億点を越えるはずである。

今日から二回に分けて、この「眠るキモノや帯」の行方がどうなるのか、「呉服屋の立場」で考えてみたい。まず今日は現状をお話し、次回では「古着」として流通する品物をどう見るのか、私見を述べたい。

 

キモノや帯ほど、「使うか、使わないか」によって扱いの違うものはないだろう。「使う人」にとれば、残された古い品物でも、何とか「使おう」として手を入れる。

母親や祖母が着ていたような、「思い入れのある品」ならば、なおさらである。汚れやカビを落としたり、寸法を直したり、場合によっては、刺繍や箔のような、柄にほどこされている仕事を補正することもある。また、寸法が短くて、キモノにならないような場合では、「帯や羽織」に転用して、使うことも考える。

自分がキモノを使う意識がある方ならば、当然考えることであり、この時に「キモノや帯」というものが、世代を越えて受け継がれる衣装であることを、改めて知ることになる。

しかしながら、このように「タンスの中にしまわれていたモノ」と向き合う人は、やはり少数で、どんなに多くても、おそらく1割程度かと思える。問題は、「キモノを残されても、使うあてのない」大多数の人達である。

 

「私が死んだら、このキモノの行き先がない」という話をよく耳にする。自分に「娘や嫁」がいる方でも、「困り果てている」人がいる。その上、「生きているうちに何とかしなければ、残された者に迷惑がかかるが、どうにもしようがない」などと言う。

一方で、「自分が死ぬまで、誰にもタンスの中には触れさせない」という、「キモノや帯への思い入れ」が半端でない方もいらっしゃる。どちらにせよ、「後の者」たちが、「タンスのモノ」を巡って「苦慮すること」になるのは、目に見えている。

 

一昔前には、人が亡くなれば「形見分け」というものがあったのだが、今はどうだろうか。実用性の高い「時計」や「宝飾品」などは、これからも、「受け継がれること」が多い品物と思われる。

「キモノ」が必要とされた時代には、「フォーマル品」を中心に、「受け継ぐ価値の高い」ものだったに違いない。しかし、冠婚葬祭にさえ使うことが少なくなり、なおキモノの扱い方がわからない多くの方にとっては、どうにも「不要」なものにしか見えない。

こうなると、タンスの中をどのように「整理」するか、どのように「処分」するかという所に行き着くしかない。この時、キモノや帯の「行方」はどうなるのか。これは、後に残された人の考え方により、様々な道を辿ることになる。

 

まず、「処分方法」として、手っ取り早いのは「捨てる」ことだ。「有価物の回収」の際などに、まとめて廃棄してしまえばそれで済む。しかしながら、これがなかなか出来ない。「捨てられない」というのは、「キモノ」というものに、「特別な意識」を持つ人が多いからと思われる。

自分が「キモノ」を使わない方でも、特に自分の母親が使っていた品に対しては、処分することに「後ろめたい」ような感情を持つことが多いようだ。同じ「衣類」でも「洋服」ならば迷わないのに、なぜかキモノだと「ためらい」がある。

「紋の付いたような」フォーマルモノなどは、このような気持ちを「喚起」させる力があるのかも知れないし、キモノそのものが「特別な衣装」として認識されているからかも知れない。また、「高価なモノ」という意識もどこかにあるだろう。

 

では、「捨てる」他に処分を考えるとすれば、どうするのか。それは「使う人を探して譲る」ということになる。例えば、茶道を嗜んでいた人ならば、お稽古を一緒にしていたような、同じ流派の親しい人に受け継いでもらったり、「キモノに興味を持つ友人の娘さん」に着てもらうなどと言う話もよく聞く。

「筝曲や三味線」また「茶道や華道」などの、「キモノを使う芸事」をされていて、沢山の品物が残った場合、まだ、「使う人」が探しやすい。困るのはそうでなくて、残された人の周りに、キモノを「使う人」が全く見当たらない場合である。最近ではもちろん、この「誰もいない」ことがほとんどだ。

 

「自分で譲る相手を探せない」場合、誰かに「引き取ってもらう」ことを考える。私などに「タンス整理」の声がかかるのは、大抵こんな時である。長い間の「お得意様」でも、「代替わり」によってキモノが不要になることがある。これは、現代の生活様式や儀礼の変化を考えれば、致し方のないことなのだ。

私の祖父や父が「見立てた品」も中にはある。品物を見ればその「質」はわかる。うちの店は、もともと「良質なもの」にこだわって商いをしてきたので、この先「受け継いで」使えるものも多い。

せめて、黒、色留袖や、訪問着・付下げ、また喪服や色無地紋付、そしてそれに伴う帯類などの「フォーマルモノ」だけでも、残してもらえないかとお願いする。今となっては、かなり「高価」な仕事をほどこした品などを見れば、なおその思いは強い。また、私にとっても祖父や父の「気持ち」が入っている、「思い入れのある」品物だからだ。

私の「説得」により、処分を思いとどまり、品物を残してくれる方もいるが、「気持ちはわかるが、これから『使う人』も『当て』もないので、持っていって欲しい」と逆に説得されることもある。自分で捨てることが出来ないので、元の店へ戻して、いかようにもしてもらうのが、最善だと考えるのだろう。

 

私は、こうして「持ち帰った品物」を、なるべくどこかで「有効利用」してもらおうと、考えている。無論当店は「リサイクル店」ではないので、これを「商いの道具」に使うことはない。それは、自分自身が「使い手」を探し、無償で譲るということだ。

どのような所へ「譲る」のか。例えば、親しくしている「高校や大学」の「筝曲部や茶道部」の顧問の先生から、「生徒達が発表会や演奏会に使うキモノ」が手に入ったら譲って欲しいと依頼されることがある。今の高校生や大学生では、その「親世代」でもキモノを持っていない学生が多いのだそうだ。

「キモノ」を着なければ「格好」が付かないのだが、学生にキモノを購入させたり、探させたりするのは難しく、「用意してやる」必要がある。こんな時に、「不要になった品物」が役に立つ。少々寸法が合わなくても、「キモノを着ている」ことになれば、それで面目が立つ。

「若い人」が使うので、なるべく「華やかで派手」な色のものを選んで譲るようにしている。「帯」などは寸法直しの必要がないのでそのままでも使えるし、キモノはなるべく、その寸法に近い人が使えばよい。

これは、「有効利用」の一つの方法だが、木綿や織物類などは、「パッチワーク等」の「材料」として使ってもらうこともある。「端切れ」というのは、買えばかなり「割高」なもののようで、「一枚まるごとのキモノ」があれば、かなりの材料となるようだ。また「絣」などの柄があれば、なお使い道が広がると言う。

 

今までの話は、身内や知り合い、また私のような出入りの者を含め、「整理する人」と何らかの関わりがある者に「残された品」を託す場合である。だが今では、品物の処分を「買い取ったり」「無償で引き取ったり」するような、「業者」に依頼することも多いと思われる。

ネットで検索すれば、実に沢山の「キモノ買取業者」があることがわかる。「買取」ばかりか、「無償で引き取る」ようなところも沢山ある。処分に困る人にとっては、このような業者は「渡りに船」になるのかもしれない。

元々は、「捨てよう」と思うような「不要品」を、「引き取ってもらえて、その上いくばくかの収入が得られるのなら」大変有難いことになる。また、「買い取られ」なくても、「持って行って」もらえれば、それで「始末がつく」ということになる。何より「自分で捨てず」に済み、後の仕事は全て業者に委ねることが出来るのだ。

業者に委ねられた後の、「キモノの行方」はどうなるのか。それは、現在様々に流通する「古着」について考えるという所に行き着く。次回のこのカテゴリーでは、市場に出回るリサイクル品の話をしてみたい。

 

「受け継ぐ者」がいないのは、「キモノ」だけではありません。最近では、「墓」を守っていく者がいないために、「墓じまい」をする話をよく聞きます。先祖より守り続けられてきた「墓」でも、管理したりお参りする者がいなくなれば、「無縁墓」となってしまいます。そうなる前に、今守っている方が「墓の始末」を付ける他はないのです。

また、「終う」ということで、もっとも大きい問題になっているのは「家」でありましょう。子ども達が都会へ出て行き、残された親達が亡くなれば、当然「空家」となってしまいます。「親」がいなくなった故郷へ戻る人は限られているため、「家」は、荒れるにまかせた状態のまま「放置」されています。

少子化と人口減少に伴う地方の「空洞化」は、様々なところに「ひずみ」となって表れ、まさに現代の「家」や「墓」の有り様はその象徴的なものと言えましょう。

「人と人」、「世代と世代」の繋がりを失ってゆくこの国の行く末がどうなるのか、もう誰にもわかりません。

今日も最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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このブログに掲載されている品物は、全て、現在当店が扱っているものか、以前当店で扱ったものです。

松木 茂」プロフィール

呉服屋の仕事は時代に逆行している仕事だと思う。
利便性や効率や利潤優先を考えていたら本質を見失うことが多すぎるからだ。
手間をかけて作った品物をおすすめして、世代を越えて長く使って頂く。一点の品に20年も30年も関って、その都度手を入れて直して行く。これが基本なのだろう。
一人のお客様、一つの品物にゆっくり向き合いあわてず、丁寧に、時間をかけての「スローワーク」そんな毎日を少しずつ書いていこうと思っています。

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