バイク呉服屋の忙しい日々

職人の仕事場から

思い出の帯を再生する 西陣 寺之内通・植村商店(1)

2014.10 04

「西陣」という場所が、京都市内のどの辺りなのか、ご存知だろうか。京都の町で織物が作られるようになったのは、5世紀頃で、平安期には、すでに職人集団の町が出来ていた。

「西陣」という地名の由来は、室町中期に京都市中で勃発した「応仁の乱」の際、西軍の大将だった山名宗全の居所であり、その陣地を構えた場所のこと。「西軍の陣地=西陣」からである。応仁の乱は、1467(応仁元)年から1477(文明9)年まで、京の町が焦土と化した、天下分け目の戦いであった。

 

室町幕府というのは、3代義満、6代義教の時代を除けば、将軍の権力は弱く、実権を握って政治を司っていたのは、有力な「守護大名」であった。将軍の補佐役である「三管領(細川・畠山・斯波)」と、軍事や警察それに徴税を司る役所「侍所の長官」を任されていた「四職(京極・山名・赤松・一色)」が、「合議制」という形式を取りながら、実権力を握っていた。

この有力守護大名たちは、それぞれ、時には争い合い、時には協力しあいながら、自分の権力を強めようとしていたのだが、どれだけ時の将軍に近づいて、自分の力を保持していくか、が最大の課題でもあった。

「応仁の乱」は、まさにこの「将軍の跡目争い」の果てに繰り広げられた、大きな戦乱であった。8代将軍の義政は、「銀閣」に代表される「東山文化」の提唱者として知られているが、こと「政治」となると、「守護大名」たちの争いや謀に嫌気がさし、将軍職に長く居ることを望まなかった。

29歳の時、自分に後継となる男子が居なかったことを理由に、弟の「義視」に譲位しようとする。その後見人になったのが、「三管領」のうちの一人、細川勝元だった。しかし、皮肉にも翌年、義政と妻の日野富子の間に男児・義尚が生まれる。そこで富子は実子を後継にしようと画策し、その後ろ盾になったのが「四職」の一人、山名宗全である。

こうして、義政の後継者争いは、「弟・義視派 細川氏=東軍」と「子・義尚派 山名氏=西軍」に発展。他の大名たちも、二分されてそれぞれに付き、戦乱の幕が開いた。

 

さて、現在の「西陣」の場所だが、東は、京都御所の西を通る「烏丸通」、西は北野天満宮のある北野白梅町の「西大路通」、南は二条城の北を通る「丸太町通」、北は、大徳寺の南、地下鉄烏丸線の「鞍馬口駅」あたりまでで、一辺がおよそ1キロほど、周囲約4,5キロの狭い場所である。

応仁の乱以後、戦火を逃れた職人たちが京の町に戻り、このあたりに居を構え、仕事を始めた。西陣は、小さな路地が入り組み、古くからの家の佇まいを見せている。ここには、織り職人ばかりではなく、加工や補正など、帯にまつわる様々な職人たちが住んでいる。

今日と次回に分けて、そんな西陣の「帯を再生する職人」についてご紹介してみよう。今日は、どんなところで「再生」がなされているかお話し、次回は、具体的に「直した帯」をお見せしながら、話を進めていくことにする。

 

 

私が帯についての「仕立」から「補正・しみぬき」、「洗い・しわ伸ばし」など、「加工全般」を依頼しているのが、西陣の「植村商店」さんである。玄関を拡大した画像ではわからないが、一見ここで、様々な帯加工をしているようには見えない。

「商店」と名が付いているのだが、表からみれば、「ふつうの民家」のような佇まい。しかし、侮るなかれ、京都の町家というものは、間口は狭くても、中は細く長く広い。

植村さんの場所は、西陣の中でも北に位置する、寺之内通を入ったところにある。この「寺之内」は、豊臣秀吉が、天正年間に数多くの寺院を集中して移転させたところから、名前が付いた。確かに、辺りには「寺」が多い。植村さんの住所を見ても、「寺之内通浄福寺西入上ル西熊町」となっている。

この職人さんを紹介してくれたのが、西陣の買い継ぎ問屋、「やまくま」のお嬢さん・山田裕記子さん。「やまくま」さんのことは、またいずれ別の稿でご紹介するが、モノ作りを大切に続けている「小さい織屋さん」をいつも紹介して頂いていて、私にとっては、「京の水先案内人」になっている方。

 

帯の加工と一口に言っても、仕立から、直しまで様々である。特に難しい「直し」は、信頼できる職人さんと懇意にならなければ、受けることは難しい。山田さんは、うちの仕事のやり方をよくご存知なので、「古い変色」や「カビ」に伴う補正、また裏地の張替え、中の生地足しなど、あらゆる「直し」を想定した上で、植村さんへの仕事の橋渡しをして頂いた。

キモノの直しに関しては、これまでこの稿でもご紹介しているように、補正職人の「ぬりや」さんや、洗い張り、すじ消し職人の「太田屋・加藤くん」に依頼している。しかし、「帯」はまた別物である。

帯というものは、織られている技法も、使われている糸や箔も、それぞれ異なる。だから、「帯を熟知している職人」でないと、適正な直しは難しい。また、帯には生地により重いもの、軽いもの、柔らかいもの、硬いものがあり、芯の素材一つでも、「締め心地」が変わる。「仕立」の際、品物ごとに、「適正」な選択をする必要がある。西陣に根付いている加工職人は、様々な経験に基づく「知恵」も持っている。

では、「植村商店」の中に入ってみよう。

 

玄関の戸を開けると、上がりまちになっていて、靴を脱ぎ部屋へ入る。右手の部屋が仕事場だが、「縦」に幾つもの部屋が並び、その境がなく、仕事場の全てが見通せる。奥行きの広さには少し驚かされる。

上の画像は、二つの部屋にまたがって置かれている、帯の「加工台」。帯一本の長さは、1丈2尺以上、つまり約4m30cmは必要となる。この台の長さは5m近くある。

この台の上で、帯の状態を見て汚れを確認したり、解きをして古い帯芯を抜いたり、裏地を替えたりする。また、それぞれの寸法に合わせて、裏地を切るなど、必要とする材料を加工する時にも使われる。いわば、品物の診察台兼手術台と言ったところだろうか。

 

一番奥の部屋には、何やら「クリーニング店」のような、「プレス台」が見える。台の上には蒸気を抜く配管のようなものもある。

この機械は、「帯のシワ」を伸ばし、きれいに補正をする「プレス機」。これは、植村さんの特注機械で、「帯専用」に幅を変えさせ、むらなく優しく、帯地を痛めずに、作業をすることが出来るように作られたもの。

帯というものは、長く使っていくうちに、特定のところに「筋」が出来る。特に、「前」に出るところはどうしても「半分に折られる」ので、横に筋が強く付いてしまう。また保管しているうち、「たたみシワ」も出来る。

シワを伸ばし、全体をプレスすることで、帯は見違えるようにきれいになる。ひどいしみ汚れや、カビなどがない場合は、この直しだけで十分だ。

一番手前の部屋から、仕事場を見渡す。一番奥にあるプレス機の部屋が見えにくいほど、「長細い」仕事場になっているのがおわかりになるだろう。

上の画像の左側の棚には、様々な種類の帯芯や、裏地が置かれている。芯の素材は、綿、絹があり、薄いもの、中間、厚いものと、入れる帯に合わせて何種類も置かれている。帯の裏地も、帯の地色により使われるため、沢山の色が揃えられている。

仕事場にお邪魔した時には、嫁いだ植村さんの娘さんも仕事をしており、古くからの職人さんたちが、それぞれの持ち場におられた。ご家族と、熟練した技術を持つ職人さん達が協力しながら、「加工」という仕事が受け継がれてきたことを実感できるような「仕事場」である。

 

「西陣」は、もちろん「帯」や「お召」など「織物作り」をする職人の町だが、仕立や加工、直しで、「縁の下」から、この伝統産業を支えている方たちも多く住んでいる。「もの作り」の人たちも、「加工」の人たちも、「技術を継承している」ことに変わりはない。

精緻な技術で織り上げられた帯でも、最後の「仕立」が上手くなければ、「締めにくい」ものになってしまう。また、「質の良いものを長く使う」ためには、「直す」技術はどうしても必要になる。

我々は、一本の帯を再生させるために、真摯に品物と向き合っている人のことを、忘れてはならないと思う。次回は、植村商店さんに依頼した、一本の袋帯が、どのように再生されたか、品物を通して具体的な「直し方」というものを見て頂きたい。

 

「西陣」が「西軍の陣地」ならば、「東陣」はどの辺りだったのか、という疑問がわきます。東軍の総帥細川勝元は、幕府の政庁だった「花の御所」を押さえていました。御所の位置は、今の「西陣」とは「烏丸通」を挟んで「東側」。

また、「応仁の乱勃発の碑」が、地下鉄烏丸線の「鞍馬口駅」に程近い、「上御霊神社」にあり、どうやら、「烏丸通」の東側にあたる、相国寺や同志社大学辺りが「東陣」だったと推測されます。ということは、「烏丸通」を挟み、「上京区の狭い地域の中で」東西両軍が対峙していた訳で、本当に「目と鼻の先」に相手の陣地があったことになりますね。

よくお客様には、呉服屋さんだから、「京都通でしょう」などと言われますが、実際に仕事で訪れるのは、京都の町のなかでも「上京区」という狭い地域だけ。応仁の乱の際に、東軍と西軍がにらみあった「この一角だけ」しか知らない、というのが実情なのです。

今日も最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

 

 

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松木 茂」プロフィール

呉服屋の仕事は時代に逆行している仕事だと思う。
利便性や効率や利潤優先を考えていたら本質を見失うことが多すぎるからだ。
手間をかけて作った品物をおすすめして、世代を越えて長く使って頂く。一点の品に20年も30年も関って、その都度手を入れて直して行く。これが基本なのだろう。
一人のお客様、一つの品物にゆっくり向き合いあわてず、丁寧に、時間をかけての「スローワーク」そんな毎日を少しずつ書いていこうと思っています。

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