バイク呉服屋の忙しい日々

にっぽんの色と文様

恋愛の達人「在原業平」に因む  八橋文様

2014.07 21

昨年9月、国から「厚生労働白書」が出された。その中に、「若者の意識を探る」という項目があり、結婚観や労働観、いきがいなどについて、18歳から39歳までの男女の意識調査がされている。

どのように調べたのか(聞き取り調査をしたのか)不明だが、「異性との交際状況」という項目がある。それを見ると、前述の18~39歳の未婚男女において、「異性の恋人あるいは友人がいない」比率は、男性62.2%・女性51.6%。男性の約三分の二、女性の半分は「異性」というものに「関っていない」現状が浮かびあがる。

特に、若い男性の「草食化」というものは、伝え聞いてはいたが、これほどとは思わなかった。そもそも、異性に「興味が向かない」とか、「恋愛のやり方がわからない」とか、どうにも私(私の世代)には「理解」できない理由が並んでいる。

では、「結婚」に関してはどうかと見れば、男性84.8%・女性87.7%が将来「結婚したい」と答えている。どちらも約9割に「結婚願望」があるということだ。では、出来ない理由はといえば、「適当な相手がいない」というのが、第一位である。

「適当」とは、どのような意味なのか。自分と価値観の合う人なのか、それとも「経済的」に満足のいく相手という意味なのか、様々あるだろう。願望はあるが、相手を探せず、しかも「付き合い方」もわからないのでは、さてどうしたらよいのだろうか。

私が思うには、「人」とのコミュニケーションが、「メール」だったり、「電話」だったりという、「相手と顔を合わせない」方法で取られていることが、遠因になっている気がする。「リアル」に一対一で向き合うことに慣れてなく、お互いの気持ちをぶつけ合ったり、慮ったりすることが苦手なのであろう。

 

今日のにっぽんの文様では、平安時代の「プレイボーイ」、在原業平(ありわらのなりひら)に因む「八橋文様」をご紹介しよう。スマホも携帯もパソコンもない時代、自分の好む「女性」を思うことを「生きがい」としていたような人物である。相手に気持ちを伝える手段が相当限られていた時代、「恋愛」を成し遂げるには、相当な「根性」が必要である。

「八橋文様」が、どうして「在原業平」の文様なのか、その辺りを中心に話を進めてみたい。

 

(サーモンピンク地 絽八橋文様ドロンワーク付下げ 菱一)

 

伊勢物語は、平安時代初期の歌物語であり、男女の恋愛を中心に和歌とかな文で構成されている125段から成る物語。多くの段の冒頭が、「むかし、男ありけり。」で始まっていて、主人公はこの「昔男」である。物語の中の歌の多くは「在原業平(ありわらのなりひら)」のもので、「昔男=在原業平」だとされている。

今日ご紹介する「八橋文様」は、この伊勢物語、第九段(東下り)の中にある「和歌」と大いに関わりがあるのだが、このことは後述することにして、まず在原業平の人物像と、伊勢物語に記述されている事柄から話を進めよう。そうしないと、業平が「八橋の和歌」をどのような心境で詠んだのか、理解しにくい。

 

業平は、かなり「高貴」な身分の人物である。父は平城天皇の第一皇子の阿保親王で、母は桓武天皇の娘伊都内親王。ということは、平城天皇の「孫」であり、桓武天皇の「曾孫」に当たる。平安京に遷都し、平安時代の幕を開けたのが「桓武天皇」であり、「平城天皇」は桓武天皇の次ぎの天皇である。

血筋だけみれば、「天皇候補」になっていてもおかしくないのだが、彼が生まれた頃はすでに「臣籍降下」、つまり皇族の籍を抜いていて(今でいうところの皇籍離脱)、「在原」という「姓」を名乗っていた。「高貴」な方ではあるが、朝廷と距離のある人物ということになる。

なぜ、これほどの血筋の人が「皇族」でなくなったのか、それは祖父「平城天皇」に原因がある。平城天皇は、父、桓武天皇の後を受け継いだ後、体調を崩し、3年で弟の嵯峨天皇に譲位する。だが、「上皇」と宣言し、平安京から平城京へ遷都して政治を行おうとしたのだ。彼には、愛人「藤原薬子(ふじはらのくすこ)」がいて、裏で糸を引いていた。これに怒った嵯峨天皇が兵を差し向け、平城上皇を倒してしまったのだ。(「薬子の変」と呼ばれている)

こんな訳で、「平城天皇」の系統に当たる子や孫は、不遇を囲い、ついには「臣籍降下」という立場に追い込まれてしまったのである。

 

平安時代初期から中期にかけての政治形態は、「摂関政治」。藤原(中臣)鎌足・不比等を祖とする藤原北家による政治支配のことを指す。業平の祖父である平城上皇を倒した嵯峨天皇(桓武の子・平城の弟)は、この当時の藤原氏の当主、藤原冬嗣を重用していた。ここが、「摂関政治」が始まる原点になる。

なぜならば、藤原冬嗣は、これ以降の天皇に対して、次々と自分の娘や孫娘を后にしたからである。いわゆる天皇の外戚(親戚)・岳父になることで、自分の地位を強大化させていったのだ。政治は、全て「藤原氏」の手に落ちたといってもよいだろう。

冬嗣の娘、順子が、嵯峨天皇の息子、仁明天皇に嫁いだのを皮切りに、冬嗣の息子である良房の娘(冬嗣の孫)明子は、仁明天皇の子、文徳天皇に嫁ぎ、もう一人の冬嗣の息子長良の娘(冬嗣の孫)高子は、文徳天皇の子、清和天皇に嫁いでいる。こうして、代々天皇家に「嫁」を供給することによって、自らの権力を守ろうと画策していった。

 

さて、長々と当時の政治状況をお話したのには、訳がある。「伊勢物語」をご存知の方にはおわかりだと思うが、在原業平の恋物語、伊勢物語におけるお相手が、宮廷内の高貴な女性達だったからである。それも決して「手を付けてはいけない」ような女性を、次々に「てごめ」にしていったのだ。

伊勢物語の第三段から第七段にかけて、一人の女性との恋愛が描かれている。彼女は、前述した、藤原冬嗣の息子、長良の娘、高子、後の清和天皇の后となる人だ。当時17歳、業平は35歳、今なら、「女子高校生」を三十半ばの「オヤジ」が「かどわかした」ことになり、これは十分「犯罪」である。

驚くことに、「高子」は、この17歳当時、すでに天皇の后となることが決められていたのだ。それは「藤原氏」の地位を守るための「政略」だ。しかし、嫁ぐ相手とされていた「清和天皇」は、この時わずか9歳だった。今なら、「小学3年生」の男の子に、「高校3年生」の嫁をあてがうということになり、「犯罪」どころか、「狂っているとしか思えない」、摂関家・藤原氏の「無茶ぶり」である。

高子にとって、そんな自分の境遇を前にして、現われた業平は、魅力的に映ったのだろう。もともと家柄も良いし、和歌もうまい。「ダンディ」な素敵な中年に胸ときめいたとしても不思議ではない。伊勢物語第三段で、業平は高子にこんな歌を贈っている。「思ひあらば、葎(むぐら)の宿にねもしなむ、ひじきのものには、袖をしつつも」。

この意味は、「私を本当に思ってくれるなら、葎(雑草のこと)の茂るような粗末な家であっても、一緒に寝て欲しい。贈ったひじき藻ではないが、敷き詰めたものを袖にしても」。つまり、どんなひどいところでも、私とならば、一緒に寝ることはいとわないで欲しいと言っている。

十分、変態である。世が世ならば、「天皇」になっても不思議でなかった業平が、「どこでもいいから、俺と寝てくれ」と言っているのだ。こんな強引とも言える誘いは功を奏さないが、高子の気持ちが徐々に動いていく。第四段では、なかなか愛が伝わらない業平の気持ちが詠まれ、第五段では、「歌」に託された気持ちが通じて、ようやく高子との逢瀬にこぎつけている。

そして、第六段では、ついに「駆け落ち」に走る。「天皇の言いなずけ」をさらったのである。高子に目をつけたことに、「政治的背景」があるとは思えないが、業平にとっては、「摂関家・藤原氏」による朝廷支配を、快く思っていたはずはないだろう。どこかに、現状への不満があったことが要因と思いたい。そうでなければ、誰彼かまわず相手の立場など考えない、ただの「女好き」に成り下がってしまう。

結局、この「駆け落ち」は、失敗に終わる。高子の兄である藤原国経・基経兄弟により、高子は連れ戻されてしまい、「監禁」されてしまうことになる。そして、業平は、「もう京都には、居ることが出来ない」と、「傷心の旅」に出ることを決意する。それが、第七段以降の「東下り」の段ということになる。

 

ようやく、今日の文様「八橋文様」に因む話のところまできた。「八橋」の段は、第九段、東国への「傷心旅行」の途中立ち寄った、「三河の国、八橋」でのことが書かれている。少し長くなるが、その部分をお示ししよう。

むかし、男ありけり。その男、身をえうなきものに思ひなして、「京にはあらじ、あづまの方に住むべき国もとめに」とて往きけり。(中略) 三河の国八橋 といふ所にいたりぬ。そこを八橋といひけるは、水ゆく河のくもでなければ、橋を八つわたせるによりてなむ八橋といひける。その沢のほとりの木のかげにおり居て、餉くひけり。その沢に、燕子花いとおもしろく咲たり。それを見て、ある人のいはく、「かきつばたといふ五文字を句のかみにすゐて、旅の心をよめ」といひければ、よめる。

唐衣 きつつ馴れにし つましあれば はるばる来ぬる 旅をしぞ思ふ (「か」らころも 「き」つつなれにし 「つ」まあれば 「は」るばるきぬる 「た」びをしぞおもふ)とよめりければ、みな人餉のうへに涙おとしてほとびにけり。

訳してみる。

昔、男がいた(業平のこと)。その男は、世の中ではもう、自分はいらない人間と思い、「京には住めない。東の国で自分の住む所を探す」と旅に出た。(中略) 三河の国の八橋という場所に着いた。この地が八橋と呼ばれているのは、そこを流れる川が、蜘蛛の手のように八方に分かれていて、それぞれの場所に「八つ」の橋が渡してあるからである。この沢のほとりの木陰で、乾いた飯を食べて休んだ。沢には燕子花(かきつばた)が美しく咲いていた。それを見てある人が、「かきつばたという五文字を句の上に置いて、旅の心情を詠んでみなさい」と言ったので、男(業平)が詠んだ。

着慣れたキモノのように、「慣れ親しんだ妻」が、都に居るというのに、自分ははるばるこんな遠くまで来てしまったこの旅のことを、悲しく思います。

この歌を聞いた回りの人達は、(業平の心情を慮って)みんな涙を流し、(食べていた)乾飯が、涙で湿ってしまった。

 

この「かきつばた」に詠まれている「妻」とは、もちろん、駆け落ちに失敗した「高子」のことである。業平はこの傷心の旅に「一人」で出たのではない。この段の最初に何人かの友人を連れていっていることが記されている。だから、その友人達が歌を聞いた時に、業平の悲しい恋の結末を慮って、一緒に泣いてくれたということなのだ。

私は、「男だったら一人で旅をしろ」と声を大にして言いたい。大体友人を道連れにして「慰めてもらう」とは、「男のプライド」が許さないと思うが。やはり高貴で育ちの良い方なので、「雄雄しく立ち直る」という道が取れなかったのであろう。

 

「杜若(かきつばた)」と「橋」の組み合わせ。在原業平の歌、「八橋」の風景をそのまま取り入れた文様である。

八橋文様は、「水辺文様」の一つに数えられ、「涼感」のある文様である。だから薄物である、「絽」などに使われることが多い。ご紹介した品も、「絽の付下げ」。上の画像でわかるように、八橋の「橋」の部分は、「穴の開いた」透かし文様になっているのが、おわかりかと思う。この技法のことを「ドロンワーク」と言う。

これは、織糸の一部を抜き取り、残った糸を束ねて、「透かし模様」を作り出すという、刺繍技法の一つ。この付下げを仕上げた時には、ドロンワークの橋の部分は、下の襦袢が透けて見え、それがまた「涼感」を着姿に生み出すことになる。

 少しわかりにくいが、「ドロンワークの橋」の下に白い薄紙を置いてみたところ。大体こんな感じで、下の襦袢の「白」が透けて映ることになる。

折角なので、この「八橋文様」に帯を合わせて、お見せしよう。

 水辺文様つながりということで、帯は「花筏文様」の生成地の紗袋帯。

 

「三河国・八橋」は、現在の愛知県知立市八橋町にあたる。知立は、名古屋から約25キロ東で、岡崎市とのほぼ中間にあり、隣は豊田市になる。古くから交通の要所として盛え、旧東海道39番目の宿場町「池鯉鮒(ちりふ)」宿である。この「ちりふ」から現在の「知立」の名がとられている。

八橋町には、臨済宗無量寿寺があり、その中に八橋かきつばた園が作られ、この文様のように、「橋」が掛けられ、その水辺には杜若が咲き誇っている。4月の終わりから5月末の一ヶ月間、「かきつばた祭り」が開催され、10万人以上の観光客で賑わいを見せている。なお、知立市の市花、及び愛知県の県花は、いずれも「かきつばた」になっている。

 

さて、在原業平のその後であるが、この男、これだけの恋愛騒動を起しながら、まったく懲りてない。次ぎにターゲットにされたのは、やはり皇女で、今度は文徳天皇の娘、恬子(やすこ)内親王である。この時代、未婚の皇女たちの中から選ばれた者は、伊勢神宮に巫女として「奉仕」する役割を負っていた。この皇女は、特に「斎宮」と呼ばれ、「神に仕える女・妻」として神聖な娘とされていた。恬子内親王は、冒涜してはならない神聖な「斎宮」だった。

そんな娘を、伊勢の国の「斎宮」まで追っていき、一夜を共にしてしまう。業平は、恬子内親王の兄、惟喬親王と大変親しかったことから、その兄の書状(つまり業平がそちらにいくので、よろしく頼みますと書いたもの)を持って妹に会いに行ったのだ。

この話は、伊勢物語第69段に載せられている。しかもあろうことか、この一夜限りの逢引で、恬子内親王は懐妊してしまう。「神の子」に手を付けたばかりか、大変なことになってしまい、後に伊勢神宮ではこの処置をめぐり苦慮することになる。この歌物語に、「伊勢物語」という名が付いたのは、この69段における「伊勢」での業平の所業から付けられたと言われている。

まだ、この他にも、業平が引き起こした女性関係は、枚挙にいとまがない。平安のプレイボーイは、計り知れないほど大胆で、「好きモノ」だったと言えよう。

 

バイク呉服屋のいい加減で、品の無い、伊勢物語の解説ですので、詳しくはマトモな講釈書などをお読み下さい。古典のお話も、「フライデー」や「週刊ポスト」に載っているような「ゴシップ風」に書いてしまったら、身も蓋もなく、優美な王朝文学が、ただの「官能小説」に成り下がってしまいます。

それでも、読んでみると、なかなか面白いもので、男女の恋愛ごとというものなど、1200年前の平安の世も、平成の現代も変わりありません。いや、「逢引する」ことの難しさを考えれば、平安の男達のバイタリティーというものは、凄いものだと感じる他はありません。なお、わかりやすく面白く「伊勢物語」を読み進めるための本として、俵万智さんが書いた、「恋する伊勢物語」をお薦めしておきます。

便利になりすぎた現代の「草食男子」は、「障害」を何とかのり越えて「会おう」とした「平安男女」の姿を学ぶべきでしょう。但し、みんなが、「在原業平」のようになれ、とは私は決して言いませんが。

ここしばらく、かなり「硬い話」をブログに書いたので、少し「柔らかい」話をさせて頂きました。「品の無い」表現があったことも、お許し下さい。

今日も最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

 

 

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このブログに掲載されている品物は、全て、現在当店が扱っているものか、以前当店で扱ったものです。

松木 茂」プロフィール

呉服屋の仕事は時代に逆行している仕事だと思う。
利便性や効率や利潤優先を考えていたら本質を見失うことが多すぎるからだ。
手間をかけて作った品物をおすすめして、世代を越えて長く使って頂く。一点の品に20年も30年も関って、その都度手を入れて直して行く。これが基本なのだろう。
一人のお客様、一つの品物にゆっくり向き合いあわてず、丁寧に、時間をかけての「スローワーク」そんな毎日を少しずつ書いていこうと思っています。

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