バイク呉服屋の忙しい日々

むかしたび(昭和レトロトリップ)

陸の孤島と定期船と 暑寒別・雄冬

2014.05 04

新緑のゴールデンウイーク、各地の観光地は賑わいを見せていることだろう。家族サービスに従事されているお父さん方は、本当にお疲れ様だと思う。五月の連休、旧盆、年末年始と、毎年繰り返される高速の渋滞や、鉄道の混雑は、「にっぽんの風物詩」であるが、この国の休みが、何とかもう少し分散化出来ないものだろうか。

連休を仕事場で過ごしている私も、「遠くへ行きたい」と思う。個人経営の店というのは、なかなか続けての休みが取りづらい。娘達が小さい時も、どこかに連れて行ったことなどは数えるくらいだ。今、彼女等それぞれが家を離れていることを思うと、もう少し一緒に過ごす時間を増やせばよかったかと後悔する。

かくなる上は、「家内」を連れてどこかへ、と考えるのが普通だが、「元バックパッカー」である、「バイク呉服屋」の行くようなところは嫌らしい。もとより奥さんは普通の人なので、きれいな所に泊まり、美味しいものを食べて、ゆったり時間を過ごすという「旅行」がしたいのだ。

私としても、そんな希望に付き合わないこともないが、どうしても「肌に合わない」感は、ぬぐえない。やはり若い頃の所業が体の中に染み付いているせいであろう。「世間」が休みなので、久しぶりに昭和の時代の「むかしたび」の話をしてみよう。

どこへも行けない「バイク呉服屋」は、「回想」により、旅に出る。

 

学校の所在地がどこにあるかで、それぞれの「等級」があるのをご存知だろうか。もちろん「街中」の学校の話ではなく、「僻地(へきち)」にある学校に対する格付けである。何のために、このようなことがなされているかというと、「僻地に勤務する教職員の給与額」を算定するためのもの。

れっきとした「へき地教育振興法」という法律で定められているが、等級は1~5まであり、5級は、もっとも「僻地」ということになる。では、この「僻地度合い」がどのような基準で決められているかということだが、これは、交通機関(鉄道・バスなど)の駅、停留所までの距離や、病院、金融機関、高校、町の中心部までの距離などが参考にされる。また、「離島」は、島までの航路の便数や本土からの距離などが勘案される。

昭和50年代の北海道には、まだ各地に「4、5級僻地学校」が散見されていた。戦後の集団開拓入植地である山深い場所や、中小の炭鉱があった場所、にしん漁などでにぎわった海岸沿いの集落などがそれに当たる。

そこはいずれも、自然環境が厳しく、交通不便なところにあった。この頃はすでに人口の流出が著しく、集落に住む人(子どもたち)は減り続けていた時期。学校そのものも「複式学級(例えば1,2、3年生を一クラスにまとめた学級)」や、「単級複式学級(1~6年生まで一クラスにしてしまった学級)」などが見受けられていた。

これまでこの「むかしたび」で取り上げてきた、「十勝三股」や「嶮暮帰島」のある「浜中町・琵琶瀬」の「僻地等級」は2級と1級である。これは「交通機関」である鉄道やバスの便があることで、僻地度があまり高くない等級になっていた。

 

今日ご紹介する、「暑寒別(しょかんべつ)・雄冬(おふゆ)」は、「3等級」の僻地だが、不便さと環境の厳しさを考えれば、もう少し上の等級でもよいと思われた所である。なぜならば、ここは「陸続き」であるのに、「道がない」集落だからだ。たどり着く手段は「船」しかない。

この「雄冬」への定期船のこと、「陸の孤島」だった集落のこと、など昔を辿ってお話してみよう。

 

(雄冬港に停泊する、雄冬海運の「新おふゆ丸」。増毛ー雄冬間の所要時間1時間15分)

「雄冬」の位置は、どのあたりなのか、というところから話をはじめよう。正式な行政区域は、留萌支庁増毛郡増毛町雄冬。北海道の北西部の日本海沿岸に位置し、「暑寒別・天売・焼尻国定公園」に指定されている、「暑寒別岳」の麓にあたる。

(1978・昭和53年 国鉄時刻表、北海道路線図より一部抜粋)

上の地図で説明しよう。札幌から函館本線の下り、旭川方面に向かい留萌本線の分岐駅深川で乗り換える。深川から1時間半ほどで留萌(るもい)に着く。ここは、札幌以北の日本海沿岸では大きな町で、戦前は、鰊漁で活況を呈した場所として知られ、今でも主産業は、水産加工である。

路線図でわかるように、留萌から日本海沿いを北に向かう羽幌線(現在廃線)と、南へ下がる線が分かれている。増毛は、南へ三駅下がった留萌本線の終着駅。この当時は、羽幌線の方が主要線で、増毛方面は支線のような感じになっていた。

羽幌線は、日本海沿いに北へ一直線に走り、宗谷本線の幌延(ほろのべ)に接続した。途中の築別(ちくべつ)は、昭和40年頃まで採炭していた羽幌炭鉱への分岐駅。羽幌(はぼろ)は、離島の天売島と焼尻島に渡る航路の起点である。

(1980・昭和55年 北海道時刻表 鉄道弘済会 留萌本線・羽幌線より抜粋)

雄冬は増毛町に属する集落だが、南は石狩管内の浜益(はまます)村と接している。上の地図でいえば、増毛から下の空白になっているところである。「全国版」の路線図などには、何も載っていない。

札幌から、石狩を日本海沿いに走る国道231号線がある。だが、当時ではこの道が浜益村・千代志別(ちよしべつ)までしか開通していなかった。隣村まで道がありながら、この雄冬には通じていない。一方、増毛側からの道も、途中の大別苅(おおべつかり)という集落までしかない。つまり、南からも北からも、ここに入る道がなかったのである。

なぜ、雄冬への道が作られなかったのか。それは、この地区が位置する地形にある。増毛から、雄冬、浜益、濃昼(ごきびる)と石狩方面に続く日本海に沿う村々は、西側は海、東側は山に挟まれ、断崖の間の僅かな土地に「張り付いた」ように存在していた。暑寒別岳(1491m)・群別岳(1376m)・浜益岳(1258m)が連なり、その山の端は高さ100mの断崖となり、一気に海に落ちていた。

その険しさは、道路建設を躊躇させるには十分であり、札幌ー留萌間の国道231号の開通は、「雄冬」の断崖絶壁を前にして、長い間止まってしまった。

 

こうして、雄冬の人々は、「道」というものから見放された厳しい環境で生活することを余儀なくされた。山の道は「ケモノ道」のような細い道であり、「車」など走れるはずもない。唯一残されたのは「海から」の道である。それも、札幌に繋がる、南の浜益方面からの船はなく、北の増毛からの航路一本だけ。この船こそが、これからご紹介する雄冬海運所属の「新おふゆ丸」である。

(増毛ー雄冬定期船を掲げてある看板が見える。下は北海道時刻表に掲載された航路時刻)

 

私が雄冬へ渡ったのは、二回。いずれも二月の厳冬期のことだった。時刻表でわかるように、朝9時半に増毛を出て、午後13時半に雄冬から戻るという、わずか一日一往復の便である。冬の日本海は荒れることが多いため、しばしばこの船は休航になる。雄冬まで行ったはいいが、そこで足止めされたらどうにもならない。もとより「観光地」ではないので、民宿が2,3軒あるくらいだ。(冬に外から訪ねる人がいないため、営業されているかどうかも怪しい)

増毛港のはずれのような船着場から、船は出る。乗船券を売るところは、木造の船宿のような構えの狭い所である。観光客を乗せる船ではなく、生活に密着した船なので、新聞や食料など日用品や雑貨類、それに郵便物などが積まれる。おそらく、「朝刊」もこの便で運ばれ、配られるのだろう。

 

初めに、停泊している船を見て、この船が定期船だとは思えなかった。最初の画像を見て頂ければわかるが、どう考えても「漁船」にしか見えない。甲板を見渡しても船室らしきものは見当たらない。船に乗り込んでみると、その客室は操舵室のすぐ下にあった。

画像で、「煙突」らしきものが突き出ているのが見えるが、その位置が客室になっているところ。広さは4畳半くらいであろうか、もちろん椅子などなく、ただ使い古されたカーペットが敷いてあるだけ。部屋全体が「黒光り」しており、暗い洞窟のようにも感じる。そして、「煙突」の元である、石炭ストーブに火が入っている。いかに昭和の話とはいえ、「石炭ストーブ」はめずらしいものだった。あとはなぜか、金たらいのような大きな「洗面器」が置いてある。

「時刻表」に載る船の定員は80名だが、画像を見れば船本体に、「定員45名」の表示がある。まさか「時刻表」に載せるために、定員を水増ししたのではあるまいが、この船、どう考えても80人も乗れない。45人だって怪しいものである。客室はあの「黒光り四畳半」だけなのだ。甲板には荷が積まれており、人の居場所がない。しかも日本海の冬の烈風にさらされては、身が持たない。「定員」が怪しいなら、「総トン数」の「78、33t」も怪しいかも知れない。

「漁労長」のような、「黒光りした日焼け顔」の船長は、いかにも「この船」に似つかわしい風貌である。まさに、「新おふゆ丸」の「キーワード」は「黒光り」であり、その由来は、船長の顔と船室の姿にある。この日は波が穏やかのように見えたのだが、出発して10分ほどで、前後左右に大揺れする。私には、それまで「乗り物酔い」の経験がなかった。また、ある程度のことで「酔う」ようなことはないという自信もあった。

しかしである。湾から離れ、少し外海へ出ただけなのに、ひどい揺れ方だ。しかもこの船の小ささを考えれば無理もない。ここで初めて、客室に「洗面器」が置いてある訳がわかった。これは「酔った者」が使う代物なのだ。部屋には「丸い穴」のような窓があるが、そこから外を見れば「波」しか見えない。しかも、波しぶきがその窓にもぶち当たって弾けている。もし甲板にいれば、ずぶ濡れであり、「波にさらわれる」かも知れない。何とも「恐ろしい」定期船である。

この日の乗船客は10人に満たない。青い顔で横たわっているのは、私だけである。中には、例の石炭ストーブの上で、「氷下魚(コマイ)」を焼いているオヤジもいる。船の中の「よそ者」が誰なのか、すぐわかってしまう。雄冬までの14k、1時間15分が3時間にも感じられた。

 

雄冬港に着いた新おふゆ丸(白と青のラインが入った船)。手前の漁船とほぼ同じような造作である。やはり「漁船」の「改良船」のように見える。

港で船の到着を待ち構えていた人達が、荷卸しをする。手前の木箱には、魚が入れられていて、帰りの船で増毛の市場に運ぶ。船の背後に雪を被った「暑寒別」の山の連なりが見える。これが、断崖となり海にすべり落ちているのだ。

荷卸しの人達の中に犬を連れてきた人がいる。北海道の犬と言えば「アイヌ犬」である。体格は大きくないが、茶毛であり、「キツネ」に似たような愛嬌があり、それでいて少し精悍な顔をしている。「秋田犬」を小型にしたような感じだ。見ていると船からおろした荷物を「そり」に乗せ、連れてきた犬とそりの間をロープで結びはじめた。ここでは、まだ「犬ぞり」が使われていたのである。港から集落につながる道は急坂になっている。そのため、人の手で運ぶよりも「犬の力」が重宝するのであろう。

 

雪に埋もれるようにして立つ「雄冬小・中学校」の木造校舎。下は「体育の授業風景」・校庭でスキーをする子どもたち。港からの坂を上った高台にある。この当時の雄冬の戸数は80戸200人ほど。

医師は、増毛あるいは留萌から船で派遣される。常駐ではなく、おそらく週一回、あるいは二週に一回程度であろう。(私がいた斜里町ウトロでも、週一度しか医師が来なかった)。診療所も新しい建物ではない(1962・昭和37年に出来たもの)。急病人が出たときは、「ヘリ」の要請しか手立てはないように思えるが、今から30年も前のことなので、今と同じように「ヘリコプター」による救援体制が整えられていたとは思えない。

下は、雄冬の集落。家は海のすぐ脇の傾斜地に立てられている。風に吹き飛ばされてきた雪で、屋根が覆われている家も見える。ここの電話が自動(ダイヤル回線)に切り替えられたのは、1978(昭和53)年のこと。道がないために「ケーブル」が敷設できず、北海道の中で最後まで電話自動化がなされていなかった。当時の電電公社は、船を使い海底に「電話線」を敷いた。こんなところにも、「陸の孤島」と呼ばれていた理由がある。

集落から少し離れた高台に「雄冬岬」がある。この岬は積丹(しゃこたん)の神威(かむい)岬、島牧(しままき)の茂津多(もつた)岬とともに、「日本海三険岬」とされ、昔から厳しい自然環境の中で、人を寄せ付けない場所とされてきた。(この他、根室の落石(おちいし)岬と室蘭の地球岬とともに「北海道三秘岬」ともされてきた)。

いずれにしても、雄冬は、この当時、よそ者が容易には近づけない場所であった。しかし、そんな「陸の孤島」と呼ばれていた村にも、そこに生きる人々の生活が息づいている。それは、道も寄せ付けないような峻厳な荒涼とした風景とは、むしろ対照的であったことを、強く印象付けられた。

 

私が雄冬を訪ねた翌年、高倉健主演の映画「駅・station」が公開された。高倉演ずる三上刑事の故郷が、この雄冬と設定され、ロケ地になったのだ。この映画、脚本は倉本總、監督は降旗康男、音楽は宇崎竜童。舞台は、函館本線の銭函(ぜにばこ)・同支線の上砂川・そして留萌本線の増毛とこの雄冬だった。

あらすじなどは「映画」をご覧いただきたいが、(DVDにもなっている)この頃の雄冬や増毛の風景を見ることが出来る。さきほど画像で紹介した「雄冬小・中学校」の「木造校舎」も登場する。また、「新おふゆ丸」で帰郷する健さんの姿や、雄冬岬と雄冬神社の風景も出てくる。いずれも「冬」景色が主になっていて、私も懐かしくなると、借りてきて見ている。

映画の舞台になった雄冬だが、それを見て「観光客」が押し寄せるような事態にはならなかった。理由はやはり、あの船しか交通手段がなかったことであろう。「新おふゆ丸」は「観光船」ではなく、最後まで「生活船」だった。映画公開直後の冬に再訪した時にも、以前と何も変わらないままの雄冬であり、「観光客」の姿はどこにも見えなかった。

1999(平成11)年、高倉・降旗コンビによる「北海道の駅」の映画、「鉄道員(ぽっぽや」(浅田次郎原作)が公開されたが、この映画の「さきがけ」が「駅」だったような気がする。それにしても、「健さん」は、北海道の冬の駅が似合いすぎている。

 

現在の雄冬は「陸の孤島」ではない。「開かずの国道」だった231号が開通したのは、1992(平成4)年である。その前に何度か「開通」はしていたのだが、雄冬岬に抜けるトンネルで大崩落事故が起こったりしたことで、度々通行不能となる。復旧工事と道路改良を繰り返した末、の孤島からの開放であった。

そして、それとともに増毛ー雄冬間の定期航路、「新おふゆ丸」も使命を終えた。最終運航は、1992(平成4)4月30日であった。だが、交通の整備と時期を同じくするように、雄冬の住民の数は激減している。昨年の時点で、戸数37戸、70人にまで減り、小学校は2002(平成14)年で閉校となり、増毛小学校に統合された。なお、現在雄冬地区に小学生はいない。

今は増毛の中心部から、わずか20分ほどで雄冬に着く。漁船のような「新おふゆ丸」に1時間以上揺られなければ、たどり着けない「陸の孤島」だったとは想像もできない。あれから、30年の歳月が流れた。私が最後に訪ねたのは、1982(昭和57)年の2月。「船」以外でこの場所に行ったことは、まだない。

 

久しぶりに「むかしたび」を書いたことで、すっかり「遠くへ行った」気分になりました。昔の写真や北海道時刻表をひっくり返している時間は、「回想」という名の時間旅行をしているのです。皆様に、私の「自己満足」のような文章をお読みいただくのは、恐縮なのですが、「連休の暇つぶし」にでもなっていただけたなら、嬉しいです。

文章を書いて私は満足しましたが、「普通の人」である奥さんにも、少しはお付き合いしなければなりませんので、明日から4日間、連休を頂きます。安曇野にでも日帰りで行ってこようと思っています。そのため、次のブログ更新は週末の土曜か、日曜になります。

今日も最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

(雄冬の行き方)

車利用 札幌より国道231号 一時間半 道はトンネルとカーブの連続 運転注意

      増毛より国道231号 約20分

札幌より バス(沿岸バス) 特急「はぼろ」号羽幌行き 二時間 雄冬下車 (一日一往復)

留萌・増毛より バス(沿岸バス) 大別苅乗り換え雄冬行き 増毛から35分 

 

 

 

 

 

 

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松木 茂」プロフィール

呉服屋の仕事は時代に逆行している仕事だと思う。
利便性や効率や利潤優先を考えていたら本質を見失うことが多すぎるからだ。
手間をかけて作った品物をおすすめして、世代を越えて長く使って頂く。一点の品に20年も30年も関って、その都度手を入れて直して行く。これが基本なのだろう。
一人のお客様、一つの品物にゆっくり向き合いあわてず、丁寧に、時間をかけての「スローワーク」そんな毎日を少しずつ書いていこうと思っています。

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