バイク呉服屋の忙しい日々

今日の仕事から

取引先散歩(4) 松寿苑・京都室町 姉小路通新町

2014.03 15

京都の中で、呉服問屋が軒を並べている場所は、「室町(むろまち)」と呼ばれている一帯である。

室町とは、もちろん「室町時代」に端を発するもので、問屋が林立する「室町通り」辺りは、1378年に幕府3代将軍、足利義満の居所、いわゆる「花の御所」が置かれた場所である。

室町通りは、現在京都を南北に貫く大路、「烏丸(からすま)通」から二本西側の通り(間に衣棚通を挟む)で、南は京都駅より南の久世橋通から、北は府立植物園のある北山通まで、約8kを南北に貫く通りのことを指す。

呉服問屋が密集しているのは、この通りの両側、東西の通りで言えば、丸太町から五条の辺りにかけてである。特に、御池から、四条あたりにかけては、江戸時代から続く老舗問屋が軒を並べていて、戦災を逃れた京都独特の「町家」の姿を残している。

「碁盤の目」のように区切られた京都の街が形作られたのは、794年の平安京遷都からで、為政者の居所を中心とする「条坊制」によるものだ。この「街づくり」は、中国(唐)や朝鮮半島(高麗)の権力者による都の建設を真似たものである。

当時の街は、都の正門である南の「羅城門」と、天皇の住む北の大内裏の正門にあたる「朱雀門」を南北に貫く「朱雀大路(すざくおおじ)」を中心とし、そこから左右対称(左京・右京に分けて)に碁盤の目のように路を組み合わせ、形作られていった。

 

京都の住所に、独特の表示方法が使われていることを、ご存知の方も多いと思う。「上ル・下ル」と「東入ル・西入ル」である。このような地番のない表示は、京都以外のどこにも見られない。

「上ル・下ル」の意味は、「北へ行くことが上ル、南へ行くことが下ル」であり、「東入ル・西入ル」は、その名のとおり、「東へ行くことをが東入ル、西へ行くことが西入ル」なのだ。ただ、これだけでは、意味がよくわからない。京都市内以外の人達には、単純に住所を受け取っただけでは、場所がさっぱりわからないのである。

これを読み解く「鍵」が「碁盤の目」のように張り巡らされた「通り」の名前にある。まず、京都の街を「南北」に貫く通りを少し覚えておく。古くからこの通りの名前を覚え方がある。「寺御幸(てらごご)」と呼ばれる方法だ。

この南北に貫く通りを、東から西へ向かって「語呂合わせ」のように覚えていく。「寺御幸」と呼ばれる意味は、一番東の通りが「寺町通」、次が「御幸町通」だからである。

これと同様、東西に貫く通りに関する「語呂合わせ」もある。これは、北から南へ向かって付けられた「丸竹夷(まるたけえびす)」と呼ばれる方法だ。一番北の通りが、「丸太町通」、次が「竹屋町通」、そして、「夷川通」である。

 

さて、また前置きが長くなってしまったが、取引先散歩・京都編として、今日は、「松寿苑(しょうじゅえん)」さんを取り上げてみたい。

(織部作家・佐藤和次さんの手による、「松寿苑」の玄関先の「社標」)

今日の取引先「松寿苑」のことは、このブログでも、何回かお話させていただいた。上の「会社標」を作った織部作陶家・佐藤和次さんを紹介した稿や、品川恭子さんの手による「黒地吹き寄せ模様振袖」を取り上げた「ノスタルジア」の稿で、社長の松本昭さんと当店との関わりについて、お話させていただいた。

詳しくは、以前の稿を見て頂きたいが、彼がたった一人で独立したのは、30歳半ばのことである。今年で33年になる。扱う商品は北村武資氏や品川恭子さん、森恭次さん、釜我敏子さんを始めとする「日本工芸会」などに所属している「作家モノ」。そして、「シケ引き」や京友禅の手仕事が施された、「逸品モノ」。

この業界が下降線に向かう時に店を興し、需要が極限まで少なくなった「よい施し」の品を今でも扱い続けている。しかも、人を雇わず、奥さんと息子さん夫婦による家族経営である。「松寿苑」は、どうしたら「質の良い品物」を世に送り出せる問屋として、生き残ることができるか、を教えてくれる一つのモデルになる店だと思う。

これから、実際どのような店なのか、ブログの上で見て頂くことにしよう。

 

呉服問屋のメッカ、「室町」へ京都駅から向かうには、地下鉄「烏丸線」を使う。この路線は、京都を南北に貫く「烏丸通」に沿って走っている。松寿苑の最寄り駅が上の画像の「烏丸御池」である。

京都市内の交差点の名前は、南北と東西の通りの名前がそのまま付けられている。「烏丸は南北の通りの名前」で「御池は東西の通りの名前」だ。

松寿苑の住所は「姉小路通・新町西入ル」。「姉小路通」は、「東西」の通りで、「御池通」から一本南へ下った通りである。そして、「新町通」は、「南北」の通りで、「烏丸通」から、四本西へ進んだ通りだ。すなわち、烏丸通から西に、「両替町通」、「室町通」、「衣棚通」、次が「新町通」になる。

つまり、この住所の通り歩けば、まず、「姉小路通」に沿って歩き、「新町通」にぶつかったら、その西に入ればあるはずだ。実際、これに従うと、「姉小路と新町」の角から西に二軒目に店がある。先ほど、京都の地名表示がわからないと述べたが、「通り」を覚えてしまえば、実にわかりやすい。「地番」など不必要で、「上ル・下ル・東入ル・西入ル」だけで、十分である。

 

店はレンガ模様の外壁のモダンな鉄筋ビル。「松葉菱」の紋が入った薄いグレーののれんが掛かる。そして、入り口には最初の画像である「佐藤和次氏」による、織部でつくられた「社標」が取り付けてある。

京都の呉服問屋にとって、「室町」に店を構えているというのは、一つのステイタスである。江戸期から、商売の中心地だったこの場所は、京都の伝統産業を代表する「呉服業」の「聖地」なのだ。独立して「商い」を志した者が、この地で店を持つことができるということは、「成功者」の証でもある。

 

品物が置かれているのは、二階の二部屋。スペースは広くないが、厳選された品がすっきり並べてある印象を受ける。

新しい年の幕開け、「初売り」に出品された、新作の小紋と付下げ。ここの色目は、優しい地色の品が多い。おそらく松本さんの色のセンスによるものだろう。私も薄地色が好みなので、自分の趣きに合う。

松本さんと奥さんが反物の両端を持ち、次々に柄を見せる。出品数は多くないが、どれも丁寧に作られたものばかりだ。そしてこの店に来るといつも感じることなのだが、このご夫婦の品物の扱いが実に細やかなのだ。何気なく並べてある反物の一つ一つが整然と揃えられており、客にモノを見せる時も、そっと品物に手をとり、優しく扱う。このようなさりげない所作を取引先は見ている。こういうところで、この店がどのような商いのやり方をしているのかわかるのだ。そして、私も「お客様にモノを見せる時」の丁寧な見せ方を学び、再認識する。

松寿苑の扱う品物は、限られた範囲のモノだ。質の良い京友禅の付下げや、型小紋、型絵染の名古屋帯などが中心である。松本さんが以前勤めていた「吉田」という問屋が、「金沢」を発祥とする店だったので、その縁で「加賀友禅」の扱いも多い。

考えてみれば、この「吉田」(室町・六角通にあったが、十年ほど前に解散した)という問屋が扱う品は、厳選された逸品モノばかりだった。センスの良い「作家」の品物をいち早く扱い、他の店と差別化をする。松本さんもここで商いと品物を見る目を養ったことが、今の成功に繋がったのだ。もちろん、独立後にされた努力は計り知れない。

 

「北村武資(きたむら たけし)」の「経錦(たてにしき)帯」が並ぶ。松寿苑が氏の品物を扱い始めたのは、人間国宝の認定以前からだ。

重要無形文化財保持者、北村武資氏は、二つの技術の保持者・「人間国宝」として指定されている。すなわち1995(平成7)年の「羅織」と、2000(平成12)年「経錦織」である。時間を置いて、二度認定される技術保持者は稀である。

「経錦」は、「経糸」で文様が表されている織物であり、「緯糸」で表現される「緯錦」より前に存在していた。だが、中国では唐、日本では奈良期を最後に姿を消していた。だからこの織物は「幻の上代織物」と呼ばれていたのだ。

この織り方は、非常に複雑な技術と経験に裏打ちされた創意工夫がなければ、復元し得なかったものだ。そもそも「経錦」とは、経糸の浮き沈みで地と文様とを表現する織物である。数色の経糸をまとめた一組を一本の経糸として扱う。それを、表に出す色糸と、裏に沈む色糸に分ける。それを、二種類の緯糸を交互に打ち込んでいくことで可能にする。

このような、経糸に変化を付けて織り出される「経錦」は、機を複雑に操作しなければならない。北村氏は、機そのものも、自ら工夫したものを使い、使う糸にも金を撚りこんだ「撚金糸」を使うなど、氏でなければ織ることの出来ない仕事が各所に見受けられる。

戦後すぐ、西陣の機屋に「見習い工」として入り、まさに「体で覚えた」技術である。その仕事は一点に止まることはなく、「機の可能性」や「織物の多様性」を常に考え、織りの腕を磨き続けた結果として、「羅」や「経錦」という「幻の織物の復元」に繋がったのである。それは、「西陣」という場所で鍛えられた職人としての情熱が生み出したもの、と言うことが出来よう。

 

品川恭子の新しい訪問着。氏の手による独特の「蔓の丸」や「桐の丸」文様で表現されている。

このブログでも何回か紹介した品川恭子さんの品物。うちの店で扱った品川さんの品は全て、松寿苑から買い入れたものだ。今でこそ、品川さんの作品は様々なところで取り上げられ、ファンも多い。だが、松本さんが扱いはじめた頃は、まだまだその作風は一部の人にしか知られていなかった。

今、「品川作品」に対する需要は多いが、品川さんの年齢が進んだことで、沢山品物を作るこが出来ない。つまり「売れる」品なのに、供給が出来ない状態になっていると言う。もう少し早く、「品川さん」の品に注目が集まっていれば、商いの機会がそれだけ増えただろうが、残念なことに作る作家の方が無理できないようだ。

 

松本さんの今一番重要な仕事は、いかに「腕のある作者」に「品物」を作ってもらうか、だと言う。つまりよい施しの商品をどれだけ集めることが出来るか、ということである。これからの時代、もっとそれが困難になるという。「手を掛けた品」というものには、「数に限りがある」。

たとえ「呉服の需要」が少なくなっても、「よい手仕事や施し」のしてあるセンスのよい品を求める消費者は、決していなくなることはない。それは、品物の「量」を扱うことではなく、「質」を追い求めることなのだ。

良質な品物に絞り、商いを続けていくということで、小さな問屋でもその「存在価値」が出せる。これは、我々専門店としての「小売」の立場でも同じことが言える。「数」を売ればいいと言う事でなく、「良質な品」を求める消費者の期待に、どれだけ答えられるかが最も重要ということだ。

本当に「上物(じょうもの)」と呼ばれる品を作り出す「職人」は、これから加速的に減り続けるだろう。そんな中で、品物にこだわった商いを続けていくには、「職人」に仕事を出し続けることであり、またセンスのある品を生み出そうとしている、「若き作家」を探し、その作品を世に出していくことであろう。

「松寿苑」の松本さんのような、「モノ作り」を商いの第一義とするような問屋だけが、これからも残るだろうし、また残さなくてはいけない。彼が「家族経営」に徹し、決して規模を拡大しようとしない理由は、そこにある。商いの価値は、「量」ではなく「質」なのだと。

 

「松寿苑」の品物に対する姿勢や、経営に対する姿勢から、学ぶことは多くあります。規模が「小さい」からこそ出来ることがある、これは、問屋でも小売屋でも同じです。何より「良いモノ」を求める顧客にどれだけの満足が与えられるか、それだけを考えれば、自然にこのような経営の形になるのではないでしょうか。

今では、取引する専門店の数も増え、その期待に答えるのが精一杯だと松本さんは話します。これは、「良品」を扱う問屋がいかに少なくなったか、ということを如実に表しています。

呉服業界が「量」や「売り上げ」を追うのではなく、「質」の充実に目を向ければ、まだまだ捨てたものではないのです。それに気づかなければ、「呉服」というものに「未来はない」といってもよいでしょう。

最後に、写真撮影を快く受けていただいた松寿苑の「松本さんご夫婦」と跡継がれる「息子さんご夫婦」に感謝して、この稿を終えさせていただきます。

今日も最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

日付から

  • 総訪問者数:1777271
  • 本日の訪問者数:242
  • 昨日の訪問者数:410

このブログに掲載されている品物は、全て、現在当店が扱っているものか、以前当店で扱ったものです。

松木 茂」プロフィール

呉服屋の仕事は時代に逆行している仕事だと思う。
利便性や効率や利潤優先を考えていたら本質を見失うことが多すぎるからだ。
手間をかけて作った品物をおすすめして、世代を越えて長く使って頂く。一点の品に20年も30年も関って、その都度手を入れて直して行く。これが基本なのだろう。
一人のお客様、一つの品物にゆっくり向き合いあわてず、丁寧に、時間をかけての「スローワーク」そんな毎日を少しずつ書いていこうと思っています。

ご感想・ご要望はこちらから e-mail : matsuki-gofuku@mx6.nns.ne.jp

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