バイク呉服屋の忙しい日々

にっぽんの色と文様

品川恭子作品に見る『天平』・色編 阿仙茶と緑青色

2014.02 09

久しぶりに大雪が降った。40センチを越える雪の始末となればやはり大変だ。先週は水、木と東京のお客様のお宅へ伺ったり、取引先や職人さん廻りをしていて、ブログの更新が出来なかった。

そこに、「ドカ雪」である。本来は昨日書く予定にしていたのだが、「雪かき」に追われて出来ずじまい。仕事場(店舗)はアーケードの中にあるため、「雪」の始末は考えなくてよいのだが、自宅は別にある。

ご多分にもれず、我が家の近所も「高齢化」が進んでいて、「雪をかける」人が少ない。そんな訳で昨日は「臨時休業」して、作業をした。北海道にいた若い頃は、日課として「雪かき」をしていたので、少し手に覚えがある。家内には、「人間雪かき機」のようだと久しぶりに誉めてもらった。私が感謝されるのは、これくらいのことである。

今日は、先日の続き、「品川恭子作品」に見る「天平」の「色」について。

 

(品川恭子 阿仙茶色 変わり丸文様 友禅絵羽道行コート)

前回と違った品川さんの作品で、「天平の色」について見て行こう。上の画像でご覧の通り、「花の丸」や「雲どり」、「九曜星」などをモダンにデザインした道行コート。今日は、この地色に使われてある少し赤みがかった「茶」の色に注目して話を進めたい。

「天平の色」というものが、どのように作られていたものか、それを記した資料がある。927(延喜5)年に完成した、律令の施行細目を表した「延喜式」の中の「縫殿寮雑染用度」である。この項を見ると、古代から使われてきた(公的な場で)染料とその媒染剤、また染める時の燃料などが詳しく書かれている。染料と染料の配合量なども、100種類あまりの天然素材の記載がある。

この時代に使われていた植物染料には、「刈安」「蘇芳」「藍」「黄檗」「梔子」「紫根」などがある。それに加え、「天平期」に入ってきた「色」とされるものがあり、「阿仙茶色」もその中の一つ。もたらしたのは「鑑真」だと言われている。

この色の原料は、インドなどの熱帯に生育する「アセンヤクノキ(別名アカシア・カテキュー)」と呼ばれるマメ科の喬木である。この幹を煮詰めると「タンニン酸」を主成分とする溶液が出来る。これに、「茶色」の色素が含まれている。この「阿仙」の茶色がどのように「天平」の色として使われたのか、「鑑真」が色を伝来したとされる根拠は何か、私なりに推測しながら考えたい。

 

(裾のほうからコートの後ろを写したところ 地色の「阿仙茶色」が生かされた図案)

正倉院の御物の中に、「七条織成樹皮色袈裟(しちじょうおりせいじゅひいろけさ)」というものがある。これは、七枚の裂を横に並べて継ぎ合わせたもので、色は樹皮のような「茶褐色」をしている。

この「袈裟」は、756(天平勝宝8)年、正倉院に納められた最初の文物の中に入っている。正倉院文物の目録である「国家珍宝帳」の記載を見ると、「筆頭」に上げられた九つの品の一つが上記のものだ。このことで、この品が聖武天皇が自ら身に付けた「天皇遺愛」の重要品であることが推測される。

聖武天皇が仏教に帰依していたのは、よく知られるところである。741(天平13)年の国分寺の建立、743(天平15)年の東大寺盧舎那仏の建立などは、中学校の教科書にも載っている。天皇が唐から来日した鑑真に会ったのが、754(天平勝宝6)年、その前の749(天平勝宝元)年には、「行基」を師として出家している。

聖武天皇は出家後すぐに(天皇在位の時すでに独断で出家していたという説もある)、天皇の地位を「孝謙天皇」に譲位しているが、このような「生前譲位」は男子天皇としては初めてのことだった。756(天平勝宝8)年に崩御した時、「勝満」という戒名が鑑真により付けられた。

 

これだけ、「仏教」に依存していた天皇の「袈裟」だけに、その色もインドのものを忠実に守っていたと思われる。「袈裟」は、インドで「壊色(えじき)」という意味のサンスクリット語の音写だ。袈裟は、捨てられたり不要になった布を繋ぎ合わて作られ、その色目は、「濁った色」でなくてはならなかった。

インドでは、僧侶が身につける服を「袈裟」といったが、仏教が中国に伝来していく過程で、「仏教徒である印」として、教えを信じるものが身につけるものとなったのである。

「熱烈な仏教徒」である聖武天皇が身に付ける「袈裟」ならば、それは「茶褐色」の「樹皮色」=壊色でなければならず、その色もインドを原産とする「阿仙」から抽出したものとするのが自然だ。また、天皇と鑑真の「緊密な関係」を考えれば、この色が「鑑真」によりもたらされたということの「裏付け」にもなるだろう。ここに、「阿仙色」が「天平の色」となる理由を見ることが出来ると思う。

 

また、この「阿仙」は、染料ばかりでなく、葉や枝などを乾燥させてエキスを抽出し、薬草としても使われていた。天平の時代、薬と言えば薬草が原料。聖武天皇の后である光明皇后が、「施薬院(せやくいん)」を開設し、病人や孤児たちに無料で薬草を供する施しをしていたことからも、多方面にこの「阿仙」が使われていたことが伺われる。

なお、この「阿仙」を原材料にした薬は現代にもある。「正露丸」と「仁丹」。成分の効用は、「毒消し」と「におい消し」である。整腸作用や、吐き気止めなど胃腸の働きを正常に戻したり、口の中を清浄にすることが出来る。「正露丸」は1902(明治35)年、「仁丹」は1905(明治38)年に製造が始まった。いずれも100年以上使われてきた「懐中薬」である。

 

(蔓の丸の中の梅花図案と仏教文様を想起させる十六弁花図案)

青丹吉 寧楽乃 京師者 咲花乃 薫如 今盛有  太宰少貳 小野 老                          あおによし 奈良の都は 咲く花の にほふがごとく 今 盛りなり

万葉集の中でよく知られた歌の一つである。要約すると、「奈良の都の、咲く花の香りは、今が盛りです」。

「あおによし」は、「奈良の枕詞」。その中の「あお」という色は「緑青色」を指す。品川さんの作品に見られる色挿しの中で、もっとも特徴的な色。上の画像の「葉」、そして、下の画像の「クローバーのような花」にほどこされている色。

 

「緑青色(ろくしょういろ)」は、ご覧のように「蛍光色」ともいえる、「明るいパステルカラー」だ。キモノに挿す色としては、大変めずらしい「現代感覚」ともいえる色のように映る。だが、「枕詞」に使われているように、古くから存在する色である。

この原料は「孔雀石(マラカイト)」と呼ばれる銅の二次鉱物。この石を砕き粉末にしたものが、天然顔料(いわゆる岩絵具)として使われていた。主成分は、銅に出来る錆びの「緑青(ろくしょう)」と同じものである。この石の色が、孔雀の羽の色に似ていることからこの名前が付いたが、古代エジプトでは、「宝飾品」の「貴石」としてすでに用いられていた。

(「三つ巴」のような蔓の丸の図案)

この「孔雀石」の顔料が日本に伝来したのは、仏教伝来の6世紀頃。他の顔料と共に伝えられたが、自然界で唯一「緑色」が出せることから、建築物や彫刻の彩色など多面的に使われた。おそらく「植物染料」の配合では、こんな蛍光色を出すことは不可能であろう。

「天平の都」である奈良の枕詞の色、「青緑色」。これはまさに「天平の色」であり、多くの品川作品にこの色挿しを見ることが出来る。これまでこのブログで紹介した品川さん品物には、必ずこの「緑青色」が使われているので、再確認されたい。

 

この「あおによし・・・」は、奈良に在住する作者が詠んだものではない。「太宰・少貳 小野老」とあるように、「太宰府の少貳(次官)」であった「小野老(おののおい)」という人物の作。

当時の太宰府の長官は、万葉集の歌人として有名な「大伴旅人(おおとものたびと)」である。作者はその下で働いていた役人。「旅人」も「老」も奈良から太宰府へ転勤してきた者、いわば「都落ち」した者ということになる。ということは、この歌は、都に想いを馳せるものであり、遠く離れた「花の都・奈良」を追慕する作者の姿が目に浮かぶようである。

最後にもう一度、この作品の全体像をどうぞ。

 

最初に紹介した色、「阿仙茶」が使われたと思われる「正倉院蔵」の聖武天皇使用の袈裟、「七条織成樹皮色袈裟」が、国からの依頼で復元模造されています。

製作したのは、帯製造の「龍村美術織物」。このブログでもここの品物は度々登場していますが、この難しい復元は2007(平成19)から三年の歳月を費やし完成されました。改めて「龍村」の技術力の高さを、再確認させてくれるような仕事でありましょう。

「天平」という視点から、「品川恭子」という作家の作品を見て来ましたが、「文様」にも「色」にも、それを使う「理由」や「位置づけ」というものが隠されているように思われ、これが、「もの作り」の大きな動機付けになっているような気がします。

これからもいろんな「視点」で、品物をご紹介して行きたいと考えています。

今日も最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

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松木 茂」プロフィール

呉服屋の仕事は時代に逆行している仕事だと思う。
利便性や効率や利潤優先を考えていたら本質を見失うことが多すぎるからだ。
手間をかけて作った品物をおすすめして、世代を越えて長く使って頂く。一点の品に20年も30年も関って、その都度手を入れて直して行く。これが基本なのだろう。
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