バイク呉服屋の忙しい日々

今日の仕事から

取引先散歩(1) 紫紘・日本橋浜町

2013.09 15

呉服関係のメーカーや問屋はどんなところか、ということを一般の方が知ることは出来ない。そこに入ることは「取引先」や「業界関係者」以外は無理である。

「問屋」がどこにあるか、その会社の「店構えはどんなものか」、などが紹介されたことはほとんどない。「商品」は知っていても、作っている会社はどこにあるのか、わからないのである。

そこで、うちの「取引先」に限ってだが、「店」の雰囲気だけでも見て頂き、「呉服問屋」がどのように「商い」をしているのか、知って頂こうと思う。もちろん、「取引先」には迷惑をかけないような範囲でである。

「日本橋散歩」をするような感じで、これから時々このシリーズの稿を進めていくつもりだ。

 

取引先紹介シリーズの第一回は、帯の「紫紘」。この会社の品物はこのブログでも何回か紹介してきた。会社創設者の「山口伊太郎翁」の話も、その足跡を辿りながらお話させて頂いた。うちの取引先としては、もっとも古く、もっとも長くお付き合いさせて頂いている会社である。

紫紘の本社は京都市上京区に置かれているが、東京にも営業店がある。私が通うのは、もっぱらこの東京店だ。

甲府から東京の取引先へ行くのは、JRのあずさ・かいじ号を使っている。割引回数券などもあり、往復で5600円、1時間40分ほどで新宿に着く。そこから、日本橋方面の取引先へ行くのは、その時々「いく場所」により経路は違う。「紫紘」は日本橋浜町にあるので、最寄駅は「都営地下鉄新宿線の浜町駅」である。

浜町は中央区の東のはずれ、隅田川のほとりにあり、新大橋で川を渡れば江東区である。「明治座」がこの町にあるのはよく知られている。

浜町駅のA2出口を出ると、すぐ目の前がこの「浜町公園」。ビルが立ち並ぶこのあたりの「憩いの場」になっている。公園の向こうは「隅田川」である。

紫紘はこの浜町公園の入り口から南へ下り、3つめの路地を清洲橋通りの方に向かって入ったところにある。一本隔てた裏の路地には、相撲部屋の「荒汐部屋」があり、稽古上がりの力士の姿も見受けられる。余談ではあるが、「相撲」と「浜町」の結びつきは古く、戦後の昭和24年に「浜町公園」の中に特設相撲場が設けられ、本場所がとり行われたことがあった。これは、昭和20年の東京大空襲の際に両国の旧国技館が焼失したため、戦後場所を開くところがなかったことによる(神宮外苑でもおこなわれたことがある)。

 

ビルの一階に店を構える。間口はそれほど広くない。昨年までは堀留町の交差点の近くにあり、その前は人形町の駅から近いところに店を構えていたが、今年になってこの場所に移ってきた。堀留の時は染め問屋の「千切屋治兵衛」と場所を共有して使っていた。

いつもは会社の「ロゴ」の着いた「大きなのれん」がかかっているが、この日は日差しが強かったため、「ヤケ防止」のため、ご覧のように結んである。

この「ロゴ」について見て貰いたい。このシンボルマークにこそ「紫紘」という会社の特徴が表れている。画像の右上、「紫紘」と書かれた会社名の上の「マーク」。これは、「源氏香の図」の一つから取ったものである。

「源氏香」とは、五種類の香りを五包みずつ混ぜ合わせ、その香りを嗅ぎ当てるという「組香」と言う優美な遊びの一つのこと。五包みを無作為に選び、五回香炉を廻し、それを当てる。「回答」する時には次のような方法で、答えを書いてゆく。まず、紙の上に縦に五本線を書く。そしてその中で「同じ香り」と思われるものを横の線で繋ぐのだ。

回答の組み合わせ(縦線と横線)は全部で五十二種類。その組み合わせ図に「源氏物語」の巻名がそれぞれ付けられている。源氏物語は全部で五十四巻だが、最初の巻の「桐壺」と最後の巻の「夢の浮橋」には「図」が与えられていない。この五十二種類の図のことを「源氏香の図」と呼んでいるのである。

改めて「紫紘のロゴ」である「源氏香の図」を見てみよう。縦線の左端は単独。二本目と三本目が横線で繋がれ、さらに四本目と五本目も横線で繋がれている。これは、「組香」で考えれば、一回目の香炉の香りはこれだけ、二回目と三回目は同じ香り、四回目と五回目も同じ香りということになる。つまり五回のうち三種類の香りが使われ、それぞれの内訳が「図」によって簡潔に表されている。

この図の組み合わせは、源氏物語の巻名でいうと「若紫」の巻にあたる。この「源氏香の図」はあたる「巻」で、その話の内容から、「吉凶」や「季節」が決められているとも言われている。「若紫」の巻の季節は春から秋にかけて、吉凶は「吉」である。

「紫紘」といえば「山口伊太郎翁」の「源氏物語絵巻」の「製織」である。このロゴはまさにそれにふさわしい「源氏香の図」からとられていると言えるではないか。そして、山口氏が自らの会社を「紫紘」と付けた理由がわかるのだ。ちなみに「紘」の字は「繋ぎ合わせる」と言う意味があり、もしかしたら「紫=紫式部」を思い起こし、それを「繋ぐ=紡ぐ」会社ということで、この社名になったのではないだろうか。そして、お話したように、会社のロゴを「源氏香の図の若紫」から取ったのだ。

 

壁際に整然と仕舞われている帯。袋帯、八寸帯、九寸帯を仕分け、置かれている。棚の上には「神棚」。店内は上がり淵から絨毯が敷き詰められている。広さは12畳ほどのワンフロアー。外から客の様子や商いの現場が見えないように入り口に「衝立」が置かれている。「帯屋」とも「帯卸」とも表示がなく、ただ「紫紘」と会社名が出ているだけなので、一般の方にはどのような「会社」なのか知ることは出来ない。

そもそも「問屋」や「メーカー」の商品には「値札」は付いていない。その代わり、会社によってそれぞれ違うのだが、「符牒」を記した「呉服札」が付けられている。この「符牒」は問屋側だけが知る値段であり、我々取引先の客にはわからない。(長くお付き合いしていれば、自然に「符牒」を解読してわかるようになるのだが)。

自分が仕入れようとする品や柄行きを棚から探し出す。袋帯の場合は地色とおおよその値段、それに用途別に分けられていて、選び易くなっている。(例えば振袖向きとか留袖向きとか)。中から探したあと、改めて品物を並べ、最終的にどれを仕入れるか決める。昔と違い「仕入れには慎重」になっているため、思考錯誤しながら選び出す。そのとき初めて価格を聞く。呉服業界の古いならわしで「口頭」で値段のやり取りをしない。「算盤」を使うやり取りだ。算盤玉をパチンと弾き、「駆け引き」をする。もう今の時代このような風景はこの業界の他では見られないかもしれない。

こうして選ばれたものが、伝票をつけて発送されてゆく。「紫紘」と書かれた「帯用のダンボール箱」に詰められる。高額品のため、このあと「茶紙」とよばれる包装紙に厳重に梱包され、「四手紐」と呼ばれる「独特」な結び方で紐が掛けられ送られてゆく。

 

今の時代、どこのメーカーや問屋もそうだが「減量経営」を迫られている。京都の製造元に会社があるのは当然だが、「東京」に営業拠点を持つ会社は少なくなってきた。我々のように京都から離れたところに店を置くものは、東京で商品が見られることは大変有難い。特にこの「紫紘」のような帯専業のメーカー問屋の存在は貴重である。

普段は「向井さん」という入社50年を越えたベテラン社員(昭和33年入社)が常駐して、取引先の相手をする。話を伺えば、来年はもう70の声を聞くそうだ。私の先代や先々代のこともよく知っていて、店がどのような品を扱ってきたかもわかっている。こうした方がまだ仕事の第一線で頑張っていることは、取引先としては心強い。

そして、先日伺った時にたまたまお会いしたのが「山口伊太郎翁のお孫さん」である。野中淳史くん、1981(昭和56)年生まれの31歳。現社長の野中明氏の息子さんだ。風貌は優しげで、「おっとり」とした話し方はいかにも「京都人」らしい。「老舗帯屋の三代目」にふさわしい雰囲気である。地方の「バイク呉服屋」とは「育ちの違い」が感じられる。

この「ブログ」も見て頂いているようで、「うちの帯、載せてもらいありがとうございます」などとお礼を言われる。少しの時間お話させてもらったが、彼自身が帯を織ることが出来ることを聞いて少し驚いた。紫紘のような名の知れた「メーカー問屋」でありながら、経営者自らが、「物作り」に参画していることに対してである。(小さな織屋では、経営者兼製作者のような場合が多いが)

だが、よく考えてみれば、創設者の「山口伊太郎氏」は終生「職人」であった。その血を受け継いでいる人ならば、「職人」であることを本分とすることは、「当然」なのかも知れない。彼との話で中心になったのは、「いかに素晴らしい手仕事の品をわかってもらえるようにするか」ということである。もちろん我々のような取引先である「小売店」が果たす役割が大きいが、「作り手」から「直接」お客様に伝えることをしていかなければならないことを彼は強く意識している。

そのためにはITの利用はもちろん、様々な考え方で「普及」していかなければならない。30歳を過ぎたばかりで、未来は無限である。「職人の技を残す」ということに賭ける気持ちは、「家業を受け継ぐ」ということだけではない「使命感」があるように思えた。

「もの作り」に関しても、最近この仕事に飛び込んだ「若い織手」の話も聞かせてくれた。何といっても「人」が原点である。「技を受け継ぐ人」がいなければ始まらないのだ。それを大切に育てていこうとする意欲も意思も感じることが出来たのは、「取引」させて頂く者にとっては、たいへん心強く、頼もしくもある。

業界は「冬の時代」と言われるが、未来を見つめる「若い業界人」がいることはそれだけで「嬉しい」ことであり、また「若い方」との話は楽しい。昔のモノが売れて、儲かった頃の事を「知らない世代」の方のほうがマトモな考え方をするように思う。

「畳」がある限り「和服」は無くならないといわれて来た。「民族衣装」としての「和装文化」がどうなっていくかは、このような「若い後継者」にかかっているといえる。「モノ作りの心意気」を持って次世代に繋げていって欲しいし、我々もその手助けをしていきたいと思う。

 

「取引先」の話、いかがだったでしょうか。呉服業界華やかなりし頃、「問屋」は「取引先」を過剰ともいえる接待をして「おもてなし」をしたようです。

銀座や人形町の高級な「鮨屋」「うなぎ屋」、また「オークラ」や「帝国ホテル」等のレストランでの接待は当たり前だったと聞きます。

今、私の出張先での食事は、地下鉄人形町駅すぐ横、「小諸そば」の「二枚もり、イカ天付き・390円」を常食としております。当然自腹で、立ち食い、3分です。私は「接待されること」が嫌なので(今、食事接待などする問屋はないが)、これでよいと思います。

「バイク呉服屋」には「立ち食いソバ」はよく似合う、と言えますね。

「紫紘・東京店」の「向井さん」「野中くん」には写真を撮らせて頂いたり、お話を伺わせていただき、このブログへ掲載するためのご協力ありがとうございました。

今日も最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

 

 

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このブログに掲載されている品物は、全て、現在当店が扱っているものか、以前当店で扱ったものです。

松木 茂」プロフィール

呉服屋の仕事は時代に逆行している仕事だと思う。
利便性や効率や利潤優先を考えていたら本質を見失うことが多すぎるからだ。
手間をかけて作った品物をおすすめして、世代を越えて長く使って頂く。一点の品に20年も30年も関って、その都度手を入れて直して行く。これが基本なのだろう。
一人のお客様、一つの品物にゆっくり向き合いあわてず、丁寧に、時間をかけての「スローワーク」そんな毎日を少しずつ書いていこうと思っています。

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