バイク呉服屋の忙しい日々

むかしたび(昭和レトロトリップ)

遥かなる国境の町 満州里・内蒙古自治区(序編)

2013.08 11

茫漠とひろがる大草原に行く、と決めたのはいつだったのか。もう、覚えていない。

子どものころから「地図帳」を見るのが大好きだった。日本ばかりか、外国の地名を見て、その地形などから、どんなところだろうといつも「想像」していた。インターネットが普及した現在と違い、「情報」というものがない時代である。

「バックパッカー」になった理由は、そんな子ども時代の「習癖」からだと思う。「旅立つ」理由は、「想像」の延長にある場所を見たいという素直で、単純な好奇心である。

「満州里(マンチュウリ)」を知ったのは中学生の時だ。日本が戦前、傀儡政府として作った国、「満州国」。中国東北部の広大な土地を我が物とし、「満蒙開拓団」を始めとする「移民政策」により、新たな「日本」として組み入れられた場所である。その西のはずれ、「ソ連」との国境の町が「満州里」である。「地図帳」で見れば、中国大陸の奥地、モンゴルの草原が広がり、途中には「大興安嶺、小興安嶺」の山々を越えていかなければたどり着かない。その先は、「シベリヤ」の曠野が果てしなく待っている。いつか、必ず行こう、と決めたのはそんな「想像」の果てのことであったと思う。

(ホロンバイル草原の遊牧民 内モンゴル自治区・新バルグ右翼旗)

しかし、現実には、そこにたどり着くまでの「困難」がどのくらいあるか、ということを知らずにいた。今回の「むかしたび」は、「満州の果て」に行き着くまでのお話をすることにしよう。長くなるため、今日の序編(旅立つまでの話)と明日の本編(実際の紀行)の二回に分けて書くことになるが、お付き合い頂きたい。途中で飽きてしまうかもしれないが、ご勘弁願いたい。

 (満州里郊外の鉄路 中ソ国境へと向かう)

私が満州・内モンゴル行きを決めたのは、1985(昭和60)年春のことだ。決めたのはいいが、出発までに、様々な情報をできる限り入手しようとしたのだが、ほとんど「わからずじまい」であった。そして、調べれば調べるほど、「行くことはほぼ不可能では」と思わせるような問題が数多く出てきた。

当時の中国は、文化大革命時に失脚していた「鄧小平」が復活し、「改革開放政策」の途についたばかりであった。外国との自由貿易も、まだほんのごく一部の都市(上海周辺)で行われて始められたばかり。また、「海外からの観光客」の受け入れも、有名な一部の観光地を巡る「ツアー」がほとんどであり、「個人が自由にどこへでも行ける国」にはなっていなかったのである。

当時、中国政府からの「招聘状」がないと、「個人旅行」は無理だったのだ。これが、解決できなければ、何も始まらない。また、クリアできたとしても、「個人に解放している町」があるかどうかわからない。もしかしたら、「日本人」であるがゆえの、「行くことの出来ない場所」は数多くあると思うのが普通である。

しかも、私が行こうとしている場所は中国東北部(旧満州)と内モンゴル、しかも中ソ国境や辺境である。ここは、中国政府にとっても、ある意味で「忌まわしい場所」であり、「日本の侵略戦争」を想起させる、「触れさせたくない」地域に違いない。そんな「微妙な地域」を「個人が勝手に歩けるのか」と。

1981(昭和56)年冬、中国政府はようやく、戦後の日本政府との「長年の懸案」だった、「中国残留日本人孤児」の問題を解決すべく、初めての「訪日調査」を行った。「この孤児」たちの存在は、ほとんどが、「満蒙開拓団」や「満州国に新天地を求めた者」たちが、終戦の混乱(昭和20年8月11日のソ連参戦などによる)の際、その「子どもたち」を「やむにやまれぬ事情の中で」、中国本土や旧満州地域に置き去りにしてきた結果、生まれたものであった。

山崎豊子による「大地の子」を読むと、「残された孤児」と「育ての親である中国人」の「葛藤」が克明に描かれているが、日中両政府にとって、この問題を解決しなければ、「戦後が終わらない」また「正常な国家間の関係に戻れない」というものだったと思う。

当時日本から「満州」へ行くことの出来る人は、中国政府から「公式」に認められた「墓参団」や「残留孤児調査団」がほとんどである。「個人」が自由に歩いたような、「旅行記」や「経験談」など、探してはみたものの、皆無に等しく、あったとしても「限られた都市」を訪ねた「都市の様子」でしかない。

この時代、世界に旅立つ「バックパッカー」達が参考にしていたガイドブックは、「地球の歩き方」である。当時の「中国編・地球の歩き方」で掲載されていた旧満州の都市は、「大連」、「瀋陽」、「長春」、「ハルビン」の四都市であり、記載内容も「町の中心部の観光案内」の域を出ないものだった。

 

「誰にでも行ける都市」にしか行けないのなら、「行かないほうがまし」である。私の「満州行き」は困難を極め、半ば諦めかけた頃、この計画を相談していた人から連絡が入った。彼女は北海道時代の友人であり、東京の小さな旅行社に就職していたのだ。

彼女に頼んでいたことは、「中国政府からの招聘状」を入手できるかどうか、確認してもらうことであった。小さいながら「旅行社」に勤務しているため、その業界間の「ツテ」を辿って、「中国の情報を持っている旅行社」を紹介してもらい、なんとか、「招聘状」を手に入れようと考えたからである。

「招聘状」は何とかなりそうだ、という連絡だった。そして、「個人旅行」であるからこそ、「訪ねられる場所」があるという、貴重な情報もくれたのだ。当時中国政府は、「外国人に見せてよい場所」と「見せられない場所」をはっきり区分けしていた。「見せてよい場所」は「大都市と有名観光地」である。「見せられない場所」とは、「政治的問題があるところ、また軍事関係施設があるところ、また対外関係で刺激したくないところ・例えば国境地帯等」だ。

中国国内のほとんどが「見せられない場所」と考えてもよい。例えば「政治的問題がある所」には、「一般農村」なども含まれる。まだまだ、中国が「発展途上国」であり、国民が「貧しい」時代である。そんな時に豊かな「資本主義国」の旅行者に、そんな姿は、「見せたくない」のだ。だから、国として「化粧」をした場所以外は、「不可」なのである。

今も昔も「ツアー」の旅行者は観光目的である。たとえば、北京であれば、万里の長城や紫禁城を訪ね、中国料理を堪能するといった具合だ。だから、大手旅行社の「観光パンフレット」に掲載されている所以外に興味を持つこともあまりない。「バックパッカー」の目的はその国の「ありのままの姿」、言い換えれば「掛け値なしの国情」を感じ、理解することにある。それが出来なければ、旅立つ意味はないのだ。

「個人」だけが訪ねられる場所とは、何なのか。それは「未解放区」のことだった。「未解放区」とは、本来なら「行けない場所」だが、「個人の申請の仕方、あるいは理由」により、許可できる所だった。これは、現地に行って「申請」しなければ、何ともいえないが、「可能性」はあるのだ。ただ、私が希望する「中ソ国境地帯」や「満蒙開拓団の入植地」が認められる確率は、相当低いだろうとのことだった。

この情報は、私にとって一縷の望みとなった。私はもともと「ノー天気」な性格である。あまり後先を考えない、無鉄砲なものである。そして、「旅立ち」を決意した。彼女には、「招聘状」の準備と「片道の航空券の手配」を依頼した。後は、中国政府とどう「交渉」するかだ。「未解放区」がどの地域、どの場所にあるのか、それさえもわからないままだが、とにかく挑戦してみようと、ただそれだけだった。飛行機のチケットを渡してもらう時、「ほんとに行くの?、帰って来れなかったら私のせいだよね。」と彼女は言った。そんな事はない、自分が行きたいから行くだけなのだ。

 

1985(昭和60)年5月22日、土砂降りの雨が東京には降っていた。成田14:30発、中国民航、上海経由北京行きに搭乗し、満州・内モンゴルの旅が始まった。帰る日を決めぬ、一方通行で、「退路を断って」の旅立ちであった。

北京に着いた翌日から、北京の外務省外務部外事課へ通い始めた。「どこで申請を受け付けるか」ということは、東京でわかっていた。だが、「役所」の場所がどこにあるのか、ということがわからない。情報をどこで得るかということから始めなければならないのだ。私は大学の第二外国語の選択が「中国語」であったという程度で、「中国語」に堪能であった訳ではない。話すことは無理で、書いてあることが何とか理解できるというくらいのものだ。だから、簡単に中国人に聞いて場所を探すという訳にはいかなかった。

この旅にたくさんの「お金」を持って出たのではない。だから、泊まるところも、「安宿」を探す必要があった。当時の通貨レートは1元=100円以下だったと思う。だから、10元以下(1000円以内)で泊まれる場所を見つけようとした。そして探したのが「ドミトリー」といわれる「宿」である。ここには、世界中の「バックパッカー達」がいた。私のような日本人や、欧米人が大勢泊まっていたのだ。そこで、ひとりの日本人と知り合った。彼は、私と反対で中国南部への旅を模索していたのだ。確か「昆明」から、国境を越えてベトナムに行くと言っていた。彼はもちろん「未解放区」のことを知っていて、その申請をしたところだったのだ。

「政治的背景」が申請者になければ、案外簡単に「認めてくれる」と教えてくれたことで、「希望の光」が見えた。ただ、「軍事施設」があるところは、「難しい」し、「鉄道がないような辺地」は申請する人がいないらしい。また「未解放区リスト」があり、その中から「選択」するようになっているが、そのリストが頻繁に変わるらしいとのことである。

「外事課」の事務所を訪ねると、「申請」する人はまばらだった。彼に申請方法は聞いていたため、手続きの仕方はスムーズにいけた。やはり、「未解放区リスト」が存在していて、そのリストにない場所は「誰であれ」行くことができない。「リスト」の横には、日付が入っていて、その意味を問うと「リスト」に入った時期だという。

リストに掲載されている場所は200くらいあったと思う。端から、ゆっくり見ていく。そして、第一の目的地である、「旧満州や内モンゴル方面」の地名を探す。とそこに、「満州里」の地名があった。日付は、85、4(つまり1985年4月)。まだ、リストに入って二ヶ月も経たない。幸運であった。

私が目指したところ。その第一は、国境の町だった。西は「満州里」、北は「黒河」と「綏芬河」、東は「虎頭」である。そして、満蒙開拓に関わりの深い場所の「牡丹江」や「佳木斯」「鶏寧」、また、内モンゴルの草原への入口「ハイラル」や「興安」などを目的にしていたのだ。

リストに入っていたのは「満州里」以外に、「牡丹江」と「佳木斯」「ハイラル」の4か所だった。私はこの4つを申請した。そして、3日後許可が下りた。許可証が発行され、それには、「パスポートの番号」と「申請者の生年月日、名前、許可場所」が書き込まれていた。これがないと、「目的地まで」の「交通機関の切符」を買うことができないほか、その「未解放区」の役所での手続きが出来ず、「泊まることもできない」というものだった。この「許可証」は私にとって、「辺境へのパスポート」だった。

 

今日はくしくも、8月11日。1945(昭和20)年のこの日、当時のソ連が「日ソ中立条約」を一方的に破棄し(ヤルタの密約による)、一斉に満州に攻め込んだ日。この対日参戦が、広島・長崎の原爆投下とともに「ポツダム宣言受諾・無条件降伏」を受け入れる最大の要因になりました。

政府の「国策」として、「満州」へ渡った「移民」。その結末は「悲惨」なものでしかなかったのです。28年前の「満蒙への旅」は、私が「日本人」であるという意味を改めて、歴史の淵を辿りながら、考えさせられることになった旅でした。

「平和」や「不戦」をどう認識するべきか、「侵略された側の満州人」が戦後どのように「日本人」を見ていたか、ということを「身を持って」体験することができたこと、それは、ありのままの姿や本音を聞くことが出来る、「バックパッカーの旅人」でなければ出来ない貴重なことでした。

「青年は曠野を目指す」という言葉の通り、「無謀」とも思える旅を終えた後、私に残ったものは、何にも変えがたい充実感でした。

今日も、最後まで読んでいただき、ありがとうございました。明日、本編を公開します。

 

 

 

 

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松木 茂」プロフィール

呉服屋の仕事は時代に逆行している仕事だと思う。
利便性や効率や利潤優先を考えていたら本質を見失うことが多すぎるからだ。
手間をかけて作った品物をおすすめして、世代を越えて長く使って頂く。一点の品に20年も30年も関って、その都度手を入れて直して行く。これが基本なのだろう。
一人のお客様、一つの品物にゆっくり向き合いあわてず、丁寧に、時間をかけての「スローワーク」そんな毎日を少しずつ書いていこうと思っています。

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