バイク呉服屋の忙しい日々

むかしたび(昭和レトロトリップ)

遥かなる国境の町 満州里・内蒙古自治区(本編1)

2013.08 12

「画像や映像」による情報を持たない、ということが、未知の土地を訪ねる時大切である。人の「想像力」を掻き立てることが、「旅のモチベーションを上げる」ことに繋がるからだ。

何の先入観も持たず、ただ「思い描く」こと。「知らないこと」は素晴らしいことだと思う。

「情報」が必要以上に発達してしまった今、それを望むべくもない。「情報」は「人の感性」を鈍らせることに繋がる。「利便性」と「感性」は相容れない気がする。

(ハルビンー満州里 浜州線・夜行直快列車)

 今日は、「満州里」までの道の「本編」。「辺境パスポート」を手にした私は、「どこへ、いつ行くか」という選択をしなければならなかった。「内モンゴル」は、やはり、少し大陸に慣れてからいった方がよいだろう。そう考えた。

個人旅行が認められたことは、「ありのままの国」を知ることが出来るということに繋がる。それは、乗る列車やどんな座席に座るかということでも、如実に表れてくるのだ。普通「ツアー」等で、「中国の列車」に乗るような場合、その席は必ず「一等車」を用意される。それも「特快=日本では特急」に限られる。そんな席に座る中国人やモンゴル人は「上層階級の限られた人物」でしかない。つまり「本当の人民」の姿にふれることが出来ないのだ。

ここで中国の列車の種類と等級を書いておこう。種類は上から、特快・直快・快客・客(日本で言えば、特急・急行・快速・普通)の順だ。等級は軟臥・軟車・硬臥・硬車(一等寝台・グリーン座席車・二等寝台・普通座席車)の順である。普通「外国からのお客様」は、「軟=やわらかいところ」つまり居心地のよいところしか乗せられない。切符を個人で買うようなことはなく、旅行社がすべて「手配」してくれるのだ。

外国人が「個人で切符を買う」ということが、どれほど「大変」か。大陸に渡り、まず最初に直面した問題がそれだった。大きな駅には、「外国人用」切符売り場がある。だが、そこでは、「軟臥や軟車」の切符しか売ってくれない。普通の人達に触れ合おうとすれば席は「硬臥・硬車」でならなければならない。とすると、「普通の中国人やモンゴル人」と同じように、「切符」を買わねばならないのだ。

この「普通」に買うということが、「至難」の業であった。特に遠距離切符(特に硬臥)の席をとること、これが大変なのだ。まず、出発一週間前から売り出すため、あらかじめ日程を決めておいて、「駅の売り場」へ行く。もちろん「大勢の人達」と同じように「並ばなくては」いけない。その「並んでいる人数」たるやものすごいものだ。どこからどこまで「並んでいる」のかもわからない。列の最後尾が確認できない。途中でどんどん「割り込む輩」が大勢いる。

ハルビンー満州里間の「硬臥車の切符」を取るのに、実に一週間もかかってしまった。毎朝6時にハルビン駅に行く。もう売り場は「喧騒状態」だ。3,4時間並んで、やっと窓口にたどり着き、希望の行き先、列車番号と等級を書いた紙を渡す。駅員はたった一言「メイヨー(ありません)」。それで終わりである。これを2.3日繰り返せば「かなりメゲてくる」。かの大陸の国で、普通の人と同じようにすることがどれだけ大変か、嫌というほど思い知らされた。

(ハルビン キタイスカヤ 石畳の大通り)

ハルビンは黒龍江省の中心都市である。上の画像(30年前のものなので、かなりお見苦しい代物である)をみればわかるように、「中国やモンゴルらしからぬ」街である。「石畳」が敷き詰められた通りは、「モダン」な感じがする。その理由はハルビンがある時期「ロシア」によって行政が司どられた時期があるからだ。

それは満州里まで乗ろうとしている「鉄道」と深く関る。この鉄道は「東清鉄道」とよばれ、1900年代初頭、ロシアと旧満州を結ぶ路線として敷設されたものである。当時、清国が日清戦争に敗れ、「下関条約」で遼東半島の領有権を与えた。それを「三国干渉」により阻止したのが「ロシア」をはじめとする列強である。その「阻止」した見返りとしてロシアが要求した権利、それがロシアから満州北部に繋がる「鉄道敷設権」だった。

1904年にこの鉄道は完成するが、この建設の際、多くのロシア人がハルビンに居住し、次第にその中で行政の権利を主張するようになる。当然「清政府」と軋轢が生じたが、弱体化した政府に「ロシア」を押さえる力が乏しく、次第にロシア人による街作りが行われるようになったのである。

だから、ハルビンの街並みは、この当時の「ロシアの街並み」に酷似していたように思う。大陸やモンゴルの他都市とは明らかに違う「モダンさ」があったのだ。ハルビンは日本人にとっても聞き覚えのある街であろう。それは、1909(明治45)年、当時の朝鮮総監だった「伊藤博文」が朝鮮人「安重根」によって暗殺された場所が「ハルビン駅」であったからだ。

(ハルビンは松花江という河の畔にあった。この河は北へ延びアムール川となる)

直快131次満州里行は夜の9時11分、ハルビン駅を出発した。これから935キロを約19時間かかって、ソ連との国境の町満州里に向かう。途中、「大興安嶺」を越え、内モンゴルの草原の中を走り抜ける、起伏に富んだ道のりが用意されている。ようやく、ここにたどり着いた。後は、列車からの車窓を楽しもうと思った。

17,8両の客車が繋がれている。先頭はディーゼル機関車だが、途中から「蒸気機関車(SL)」の牽引が見られるかもしれない。車内は予想通り「大変な状態」だ。これまでひと月の間乗ってきた「硬臥車・硬席車」がそうだったように、大量の荷物を抱えた人達が「デッキ」に溢れている。「硬臥車」は「三段ベット」で「指定」されているが、「寝台券」を持たない者達が、通路で寝転んでいるのだ。ちょっとの目を離した隙に、「ベットに寝てたりする」。荷物の中に「アヒル」を持ち込む者までいて、どうにも収拾がつかない。車掌である「服務員」が乗車時に「切符確認」をするのだが、通路はとても通れるような状態ではない。だから、無茶苦茶な乗客たちは、ほぼ「放置状態」なのだ。

乗車とともに、早く「ベット」に横になりたいのだが、周りの人がそうさせてくれない。「硬臥・硬座車」に「外国人」がいることが「ありえない」のである。それも「日本人」なのだ。すでに、発車前から、周囲の視線を感じる。もうそれには大分慣れた。列車に乗るたび、「いつも」そうなのだ。そして、「筆談」での「会話」が始まる。

長距離列車の車両には「給湯器」が付いている。そして、「ポット」があちこちに用意されており自由に使うことが出来る。私が日本から用意したもの、それは、「煙草」と「松茸の味お吸い物」と「粉末コーヒー」である。大陸の人達は、自分が「煙草」を吸うとき、周囲の人にも「勧める」。私は「愛煙家」なので、その勧めに応じることで、「会話」が始まる。

日本の「煙草」を勧めてみる。「コーヒー」や「松茸の味お吸い物」も試してもらう。煙草とコーヒーは概ね好評だが、「松茸の味・・・」はすこぶる「不評」だ。あの微妙な「ダシ」の味が理解できないのかもしれない。

そんな何でもないことから、話が始まる。話題は「日本」という「国」がどんな国なのかということが中心だ。戦後荒廃した国土からわずかの間に「先進国」の仲間入りをした「日本」。私は「ウォークマン」を用意し彼等に聞かせてみる。「日本のはやりうた」だ。彼等が「松任谷由美」や「中島みゆき」を理解するとは思えないが、何を話すより、「日本の進んだ電化製品」と「日本の音楽文化」を「体験」してもらうのが、一番わかりやすい。30年後の今日、中国がこれほど変貌するとは、当時夢にも思えなかった。彼等の一様ならざる驚きが今でも目に浮かぶ。「ウォークマン」は一晩中車両の中を駆け巡っていた。

「旧満州」は、日本人にとっても、中国人にとっても、ある意味触れるのが「忌避」される場所だ。だが、列車に乗ると日本語ができる人が「少なからず」いる。特に当時の60代以上の人は、ほぼ「日本語」を理解できるのだ。そんな老人達も私に対して「直接」戦前の日本に対する「憤り」を語ることはなかった。ただ、「日本語」が話せるという意味は何かを考えれば、自ずとどのように接したらよいかわかる。

日本による「満州支配」それは「皇民化政策」という同化政策である。日本人と同じ言葉、同じ価値観、同じ宗教(神社崇拝)そして尊皇。「日本語を話せる」のはそんな戦前の「産物」だ。「満州国」は「五族協和」のスローガンの下に建国された国である。「五族」とは日本、中国(漢)、蒙古、朝鮮、台湾である。しかし、実際は日本がすべての実権を握った「傀儡」の国。

ごく一般の中国、満州人と話す時、このことは「自覚」しておかなければならない。私は戦後生まれであるので、「実際」を知らない。しかし「日本」という「国」がしたことを理解しなければ、こういう旅は無理だ。年配の人と話をするとき、この「自覚」があると、相手を「思いやる気持ち」が生まれる。もちろん私が「昔の日本」について、改めて「謝罪」するようなことはない。だが、「平和を求めること」や「二度と戦争をしない」意識は、言葉のはしばしに出て来るものなのだ。

「侵略した方も、された方も」お互いに相手の気持ちに添うことが重要だろう。「思いやる気持ち」は言葉があまり通じなくても、必ず伝わるのだ。これは、1985年当時、この旅を通して「確信」したことだった。今のこじれた「日中関係」を見るに付け、改めて思う。「経済的な(お金のやり取り)」だけで両国を発展させていこうとするのは「限界がある」。「発展的互恵関係」、いわゆる「ウインウインの関係」なるものに相手の心に寄り添う気持ちなどなくてよい。両方とも「儲かれば」いいのだ。これでは、いつまでたっても「本当の良き隣人」にはなれない。

だから「歴史」を見つめることが、とても大事だ。そして、「ネット」などの仮想空間(相手の見えない所)での「罵り合い」は不毛のことであろう。30年前ひとりで「満州」をさまよった私には、両国の民の心は「寄り添う」どころか、決定的に離れてしまったように見える。悲しくて仕方ない。

 

横になる間もなく、喧騒に包まれた夜汽車の夜があける。6月のことで、朝が早い。4時前にはすっかり明るくなった。列車は大興安嶺の入り口に差し掛かっている。

(朝の刺麻山駅 小さな村の駅舎。興安嶺に近づく)

(これがホーム。どこからどこまでが駅なのかわからない)

田舎のホームに止まると、どこからともなく現われるのが「物売り」。近隣の農家から、色々なものを持ち込む。また「手製弁当」も売る。列車に食堂車はあるが、遠くていけない。またひどい「混雑」で行く気にならない。だから、みんな物売りから「弁当」を買うのだ、飯の上に野菜と肉を炒めたものを「のっけた」だけのもの。それが「5角」、約30円。私も買う。とにかく「バックパッカー」は体が資本だ。「生水」には注意するが、あと、何を食べても大丈夫である。これは、基本である。自信がない者は「旅に出れない」。弁当の他に「まくわうり=スイカの一種」や「ひまわりの種」を近くの人から「おすそ分け」してもらう。一夜ですっかり「仲良く」なれるのだ。

 

本編を一日で、というのも無理でした。「紀行」を書いているのに、時代背景や歴史に話が飛ぶため、進みません。ただ、「満州」という土地がどんなものかということを知っていただかなくては、「内容」を理解して頂けない気がします。

明日は大興安嶺からモンゴルの草原へ、そして「終着駅、満州里」まで書きます。何だか、「世界の車窓から」のようになってきてしまいました。

今日も最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

 

 

  

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このブログに掲載されている品物は、全て、現在当店が扱っているものか、以前当店で扱ったものです。

松木 茂」プロフィール

呉服屋の仕事は時代に逆行している仕事だと思う。
利便性や効率や利潤優先を考えていたら本質を見失うことが多すぎるからだ。
手間をかけて作った品物をおすすめして、世代を越えて長く使って頂く。一点の品に20年も30年も関って、その都度手を入れて直して行く。これが基本なのだろう。
一人のお客様、一つの品物にゆっくり向き合いあわてず、丁寧に、時間をかけての「スローワーク」そんな毎日を少しずつ書いていこうと思っています。

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