バイク呉服屋の忙しい日々

むかしたび(昭和レトロトリップ)

消えた仙人境 王滝・濁川温泉

2013.07 14

「ライフライン」と呼ばれるモノは何だろうか。まず電気、水道、ガス、そして通信手段である電話。今は携帯やパソコンも生活に必需なものとなった。

30年以上前、東京で暮らしていた下宿には、テレビや電話がなく風呂もなかった。冷暖房器具も「コタツ」のみ、というより「電化製品」というものがないのだ。当時の地方出身学生は皆似たり寄ったりで、食べることに窮していた連中が多かった。

だいたい「金のない者の友人は金がない者」であり、よく似た生活環境の連中が顔をつき合わせていたものだ。私なども「米」を1キロ以上の「袋買い」が出来ず、当時米屋にあった「秤」を使い、500円までと値段を決めて買ったり、服は長袖シャツの袖や肘が擦り切れたり、ほころびたりすると、器用な女の子の友人に頼んで半袖シャツに直して貰い、再生して使っていた。

今日はそんな時代の「むかしたび」の2回目、長野県王滝村にあった濁川温泉の話をしたい。

 

前回の「十勝三股」の稿の時も書いたが、この時代私は「ありのままの姿」を残す所を探して歩いていたように思う。私には当時バックパッカーの友人が幾人かいて、色々な情報を伝えてくれたのであるが、その内の一人が探してきたのが、この「濁川温泉」であった。彼がこの場所をどこから仕入れたものか知らないが、この友人が、「国土地理院発行」の2万五千分の一の地図を眺めることを日常としていたことを考えると、どうも地図の中から無名の「温泉表示マーク」を見つけて教えてくれたものと思われる。

「木曽路はすべて山の中にある」とは、有名な「島崎藤村」の「夜明け前」の書き出しだ。。濁川温泉の起点である中央本線の木曽福島は、中仙道時代からの古い宿場町で、その駅に立つとすでに周囲は山に囲まれている。ここから濁川温泉のある王滝村へ向かうバスが出ていて、約1時間で村の中心地に着く。

王滝村は標高3,067mの御岳山の懐に抱かれた林業の村である。「木曽節」に唄われた「木曽のナァ、中乗りさん、木曽の御岳山はナンジャラホイ」で知られる御岳山は、古来より山岳信仰の山として崇められてきた。そして、その村は長い間、山からの恵みとしての木材伐採を生業としてきた。

村内の山林はそのほとんどが国有林であったため、その切り出しには早くから「森林鉄道」が敷設された。「王滝森林鉄道」である。この鉄道は、木曽街道(旧中仙道)沿いの木曽森林鉄道の中の一つに数えられ、中央本線の上松(あげまつ)駅を起点として1923(大正12)年より運行されていた。この時代、国が管理する林は「御料林」と呼ばれ、帝室林野管理局という役所がそれに携わり、ここ木曽谷では主に「檜」の伐採が進められたのである。

王滝鉄道は王滝川に沿うように敷設され、その川に流れ込む支流にも支線が作られた。本線は上松ー鬼淵ー崩越ー氷ヶ瀬ー下黒沢ー滝越ー本谷間の約48k。支線は白川、鯎(うぐい)川、濁川、瀬戸川などで全てを含めると総延長155kにも及ぶ壮大で、長大な路線であった。もとより山また山、谷また谷の地にこれだけのものを建設した労苦は計り知れない。林道建設がまだあまり手が付けられていない時代、その運び出しはほぼ鉄道に限られ、国のいたる所に、この森林鉄道が作られたのである。

濁川温泉は、この森林鉄道の本線である「王滝線・下黒沢停車場」の手前の「柳ヶ瀬」という所から分岐した「濁川」支線沿いにあった。濁川は王滝川の支流である。王滝森林鉄道は1976(昭和51)年まで運行されていたが、これは、日本の森林鉄道の中で一番最後まで運行されていたもので、いかに、この地が林道整備が難しく、かつ長大な路線で、しかもその伐採量が多かったことを示している。

 

私がこの濁川温泉を訪ねたのは1982(昭和57)年の5月である。すでに鉄道は廃止になり、林道が整備されていた。当時王滝村営バスが朝夕一往復ずつ、村役場のある王滝地区と滝越地区の間12Kを走っていた。この林道はダート(未舗装)で、急峻な崖をぬうように作られ、小さなカーブをいくつも曲がりくねりながら進んでいく。王滝から50分ほどそんな道を走ると、道のかたわらにポツンと「濁川温泉」の看板が出ている。もちろん周囲に人家などない。周囲を見渡せば「山の連なり」しか見えない。

「濁川温泉」の看板に「これより20分」の表示がある。その看板の下、すなわち林道の脇からほぼ一直線に続く「崖」の道が付いている。どうもここを降りるらしい。その道は人が一人だけ通れるような草生した道であり、この先に温泉の建物があるとは思えない細い道である。周りは檜の林で鬱蒼としており、道には、あちこちに「木の根」が張っていて歩きにくい。幸い5月の新緑の季節であり、遠くで鳥の声も聞こえる。

「崖」を下り終えたところで、林の間から温泉の建物が見え始める。着いた所は「濁川」の河原である。温泉の建物は予想したものより大きい。入り口には、大きく「濁川温泉場」と書かれた古い標札。屋根には石が並べられている。しかし、よくぞこんなところに建物を作ったものである。どうやって資材を運んだのだろうか。ここに至る道は、先ほど通ってきたあの「細道」しかないのだ。

この宿を予約する時使ったのは、「往復葉書」である。ここには「電話」がない。それどころか、「電気」も「ガス」もないのだ。あるのは、「ランプ」と「薪」だけである。「世間」とはまったく「隔絶」されたところと言っていいだろう。

温泉が見つけられたのは明治のことだ。宿の建物は70年前(つまり大正の頃)に建てられたという。二階建てで、部屋の仕切りは障子とふすまである。たたみは陽があたらないせいか、ぶくぶくとふくれあがるような感じである。何年替えていないのだろうか。

宿を切り盛りしていたのは、まだ若い(おそらく30代前半と思われる)ご夫婦で、小さな子どももいた。聞くと3代でこの温泉を守っているという。「半場」さんという方で、お爺さんもお婆さんも70歳代で、健在であった。

入り口のすぐ横に「囲炉裏」がある。そこでお爺さんに話を聞いた。ここは国有林の中の借り地であり、年間3万円の賃料だという。営業は4月~11月で冬の間は山を降り里にある家で過ごす。ふと見るとお爺さんの肩に文鳥が乗っている。その文鳥の「羽」が宿の煙(囲炉裏の煙か?)で黒っぽく「煤けて」いたのが、今も印象に残っている。

早速風呂に行ってみる。風呂は宿の一番端、階段を30段下った「離れ」にある「湯小屋」。入ると広さは四畳半ほど、あけられた窓の下は「濁川の河原」だ。杉の木の浴槽の中には小さな石や砂利が敷かれ、その間から湯がプクプクと湧いている。何と浴槽の底から源泉が湧き出ているのだ。湯は茶色に濁り、温度は40℃ほどで、心地よい。成分は鉄泉で、飲むと甘酸っぱい味がした。この湯は鉄分が多く石鹸が使えず、てぬぐいを湯に浸すといっぺんに茶色に変色する。見渡せば、湯小屋の板も木も赤く染まっている。その頃私は髪をかなり伸ばしていて、ポニーテールのように後ろで結んでいた。ひげも伸ばしていて、仙人のような風貌になっていたが、この湯の鉄分で、髪の毛もひげもボサボサになってしまったことを思い出した。

夜は「ランプ」を持って湯に行く。物音一つしない漆黒のやみ。外は満点の星。昼に湯小屋から外を見ると、河原と森や樹木が見渡せ、5月の緑がまぶしいほど。鳥のさえずりが遠くからも聞こえる。まさに「仙人境」である。

3日ほどの滞在で、昼は河原で飯盒で自炊する。濁川は水があまりなく、河原は大きな岩が無数ころがっている。飯が済むと岩の上で昼寝をする。夜は宿の飯。蕗の煮付けや山菜のてんぷら、焼き魚、味噌汁。いずれも宿周辺で採れたものばかりだ。泊まり客は少なく、「山菜採り」や「渓流釣り」が目的の利用者であろう。なにしろ、交通も不便(足を使わなくてはいけない場所)、宿の施設も記した通りである。もちろん宣伝などされず、ガイドブックにも載ることはない。まさに「秘湯」と呼ぶにこれほどふさわしい温泉は、今までお目にかかったことがない。

文明や文化とは無縁の地で「この宿」を守り続けることを、どのように考えたらよいのだろうか。「便利さ」とは何かということを、この頃いつも自問していたように思う。前回の十勝三股の稿と同じである。「自然に寄り添って生きる」という「覚悟」のことだ。しかし、この厳しさがどのようなものか、この時私はまだ思い知る術がなかった。まさかこのような悲劇がおこるとは。

 

1984(昭和59)年9月14日、午前8時48分。御岳山直下を震源とするマグ二チュード6,8の地震が発生。長野県西部地震。王滝村の震度は6。そして山は「山体崩壊」を起こし、大量の土砂が粉々になって崩れ落ちる、いわゆる「粉体流」となり、川筋を一気に下ったのだ。伝上川を時速80キロで駆け下った土砂は、あっという間に濁川に流れ込み、瞬く間に「濁川温泉旅館」を飲み込んだ。

逃げる間などほとんどなかっただろう。そのとき宿に客はいなかった。だが、あの時の若い跡継ぎの孫夫婦と子ども、そしてその母親のおかみさんが犠牲になった。お爺さんとお婆さんは里の家に降りていて、この惨禍に合わなかった。

あの静かな湯小屋の前の河原は、実に30メートル以上の土砂が堆積し、川を埋め尽くした。その亡骸さえ永久に見つけることは出来ない。そして「仙人境」が消えたのだ。

 

今、私の手許に、宿を出る朝、玄関で写した写真がある。「濁川温泉場」と墨描きされた古い標札の前で、亡くなった若い跡継ぎの息子さんと一緒に撮ったものだ。あれから31年も経ったのだが、こうやって稿を進めていきながら記憶を辿ると、風景は甦る。永遠に戻らない景色だが、窓から見た新緑も、赤茶色に濁った湯の色も、岩の上で寝そべってみた空の色も記憶にある。みんな「色」の記憶だ。

「自然と共生すること」は本当に難しいことである。災害は予期せぬ形で人間に降り注ぐ。たぶん「覚悟」をしている間など、ないだろう。過去も、今も、そしてこれからもだ。人は自然の中で「生かされている」ことを思い知るべきなのだろう。悲しい記憶の中で、あの「仙人境」だった濁川温泉はまだ、私の中に生き続けている。

 

「むかしたび」は、他のカテゴリーと異なり、ひと月に一度の更新になります。なぜなら、記憶を辿ったり、家の中から当時の資料を探すのに時間がかかるからです。もちろん「書く」時間もかなりの時を要します。

不思議なもので、書き進めているうちに、色々なことが甦ってきます。それは「写真」などの「リアル」な「画像」によるものでなく、心に残る「印象」なのです。おそらく目で見たものより、心で感じたことの方が、無意識に刻み込まれるのかも知れません。

最後に、一瞬のうちに「不帰の人」となった、「濁川温泉」の方々のご冥福を祈りつつこの稿を終わりたいと思います。

今日も最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

 

(王滝村周辺の行き方)

中央本線 木曽福島駅下車 王滝行きバス(おんたけ交通)で40分

県道468号、滝越方面に進む 約12k(公共交通はない) 途中旧「柳ヶ瀬」バス停に、災害時の慰霊碑がある。旧濁川方面の林道は通行不可。

 

 

 

 

 

 

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松木 茂」プロフィール

呉服屋の仕事は時代に逆行している仕事だと思う。
利便性や効率や利潤優先を考えていたら本質を見失うことが多すぎるからだ。
手間をかけて作った品物をおすすめして、世代を越えて長く使って頂く。一点の品に20年も30年も関って、その都度手を入れて直して行く。これが基本なのだろう。
一人のお客様、一つの品物にゆっくり向き合いあわてず、丁寧に、時間をかけての「スローワーク」そんな毎日を少しずつ書いていこうと思っています。

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